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ニコラの海のレビュー・感想・評価

ニコラ(1998年製作の映画)
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ニコラのように、両親の片方から偏って愛情を受けていたり、あるいはどちらかが明らかに欠陥していたり、また受けてきた愛情自体どこか歪んでいて同年代の子たちと異質な環境にあったり、差し出された手のことは覚えているのに確かに重ねたはずの自分の手をどうしても思い出せないそんな子供は、意味を完全に理解しないうちからひどく上手に可哀想な振りを熟るのかもしれない。わたしはまさにそうだった。大人が「変わった子だな」と自分を注視していたり、「かわいそうな子」という同情で自分だけ他の子と違う扱いを受けたりするとき、どんなに些細な萌しでも必ず感じ取れた。子供だから比べる対象をほとんど知る術がないから、変わっているとか可哀想とかそんなふうに自分を思うことはない、だけど変わっていて可哀想だったら大人は同情して特別に扱ってくれる。寒い日は温かいココアを淹れてくれて、遅い夜は部屋へ呼んで誰にも内緒の話をこっそりと聞かせてくれる。そういう同情とか親しみは愛情によく似ている。だから可哀想な振りをするのが上手になっていく。ニコラの不安と安心の極端な振れ方も、創作の話がどんどん現実と同化していって願望だけでなく絶望の部分も含め境目を失っていく感覚も、興味は死(そのものというより不変のものや自分自身の力でいくらでも歪めることのできるもの)へ向いているのに起こってしまう確実に生きている身体の成長への恐怖と嫌悪も、ぜんぶ自分の感覚であるように鋭く痛くて、一瞬で回帰できて、わたしの中にこの時代がまだ鮮烈な記憶として残り続けていることを思い知った。何十年経ったとしても、この映画を懐かしいなと笑って観ることはできないかもしれない、少なくとも今はそう思うの、目や指や口の動かし方もまともなリズムの呼吸も忘れてこの夢とうつつのとけあった世界にのめり込んでしまう。大人になる前の子供のすがたというのは本当に本当に神秘だ、躓けば躓くほど、不細工であればあるほど、海底や宇宙よりも広大で深く、未知で恐ろしいものだ。それを真の純粋なる美しいものとして描くことはある側面では悪で、"うつくしい"を押し付けることはいつも不謹慎で残酷で暴力的なことだから、だから羽化の途中の翅虫の美しさは、こんなふうに公園の隅の誰も寄り付かない危険で悪趣味な遊具のような存在の、ホラーの中だけに描かれていればいいの。彼らに近ければ近いほどわたしは落ち着く、いけないことがゆるされるから快も不快も感じなくて済む。対処のしようがないものを前に起こるこの情動が指を組んで祈るあなたのことを簡単に天国へ連れていってしまう、過去を振り返るなんて生ぬるいものではなく人を生まれる前のすがたへと戻すことだってできる。痛めつけられて苦しめられて可哀想で可愛い子どもたちは、その握れば折れてしまいそうな小さくやわらかな手であなたを痛めつけ苦しめてエンディングでようやく救済してあげるそんな物語を夢にみている。そしてわたしは彼らと手をつなぎ、白い雪へと袖を通す、青い月あかりへとつま先を浸す、消えてはあらわれ、あらわれては消えながら、脚光の下へと順番に躍り出るの
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