エジャ丼

ファイト・クラブのエジャ丼のレビュー・感想・評価

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
5.0
「人生の持ち時間はいつかゼロになる」

自動車会社に勤務する"僕"は平凡ながらも物質的に何不自由ない生活を送っていたが、不眠症を抱え悩んでいた。ある日、出張中の機内でタイラー・ダーデンという男に出会う。タイラーはマッチョで自身家、"僕"とは正反対の理想の男。タイラーの誘いに乗りお互いに殴り合うことで生きている実感を得、はじめは2人のみだったが、次第に大勢の男達が集まるようになり、タイラーはこの集まりを「ファイト・クラブ」と名付け活動を始めるが、次第にそれはエスカレートしていく…。

《ファイト・クラブのルール》
1.クラブのことを口外するな
2.クラブのことを口外するな
3.力が尽きたらストップ!の声でファイト終了
4.試合は1対1
5.1回に1試合
6.シャツと靴は脱ぐ
7.試合時間に制限はない
8.会員は入会第一夜に必ず闘う

平凡な毎日を送り生きているか死んでいるかもわからない、「満足感」に恵まれなかった男たちの発散の場として生まれた「ファイト・クラブ」、勝ち負けはなし、恨みっこなしで殴り合うことで血を流し、「生」の実感を得る。

【そもそも「生」の実感とは何か?】

The things you own end up owning you.
『自分自身の所有物に、おまえは支配されてる』

We're the middle children of history, man. No purpose or place. We have no Great War. No Great Depression. Our Great War's a spiritual war... our Great Depression is our lives. We've all been raised on television to believe that one day we'd all be millionaires, and movie gods, and rock stars. But we won't. And we're slowly learning that fact. And we're very, very pissed off.
『俺たちは時代の狭間に生きる子どもたちだ。目的も場所もない。戦争も、大恐慌もない。俺たちの戦争は精神の戦争だ。俺たちの大恐慌は、毎日の生活だ。俺たちはテレビで育てられ、いつの日か大金持ちか、映画スターか、ロックスターになると信じ込まされてきた。だが、そうはなれない。おれたちは少しずつ真実を学んでいる。俺たちはうんざりしてる』

【消費をすることが、モノに囲まれることが本当に生きていることになるのか?】

【その行為自体に満足しているだけで、それらを全て取り去ったとき、お前には何が残るのか?】

【お前は何のために生きているのか?】

この映画には人間としての本能に訴えかけるメッセージが込められている。ファイト・クラブに集まるのは、理想を持つが故にその理想に苦しまされ、人間の本能的な欲求である「生」の実感に飢えた者たちである。

血を流すことでなぜ満足感を得られるのか、勝ち負けすらないのに、わざわざ痛い思いをする必要はないと感じるのが普通だろう。だが、そもそもその痛い思いをして血を流すこと自体が、人間が一種の生物として「生きている」という証明になり、実感であるのではないかと自分は考える。

"僕"は自宅にあらゆる家具を置くことで物質的な満足感を得ていた。だがそれで人として明確に何かが変わるだろうか?そのモノを置くという行為(家具が持つ正規の役割の達成)自体が持つ「満足感」に囲まれ、あたかもそれを自分に取り入れた気分になっているだけではないか。その結果、"僕"は知らぬ間に「理想」を過剰に求めてしまう。

考えてみれば、ファイト・クラブで殴り合うことは個々人の問題の解決には繋がらない。何も進歩することはない。自分の肉体を自らすり減らすことで「頑張ったんだ」と解決した「錯覚」に陥っているだけだ。だが問題を全て解決してしまったとき、それこそ人として生きている意味はあるのだろうか?この場合、「生」の実感はいわば現実逃避、実体のないその場しのぎの救済、人間は常に悩みを抱える運命にあるのかもしれない。