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オッペンハイマーのエジャ丼のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
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「この男が、世界を変えてしまった」

J・ロバート・オッペンハイマーは、1942年に陸軍のレズリー・グローヴスから原子爆弾開発に関する極秘プロジェクト『マンハッタン計画』への参加を打診され、快諾。ニューメキシコ州にロスアラモス研究所を設立し、全米から科学者を招聘し、国家の存亡をかけた核開発に着手する。

ついに、ようやく、待望の、公開。あのクリストファー・ノーランの作品がこんなに本国から公開が遅れることは本当はあっちゃいけない!!“原爆の父”オッペンハイマーを主題とするセンシティブな作品であり、脇を固める超超超豪華俳優陣。正直、楽しみでしかなかった。

ノーランの作品としては珍しく、アクションやSF要素が皆無の、タイトルの通りの伝記物。日本での公開が躊躇された要因の一つであろう原爆の描写、または扱いについては注目せざるを得なかったわけだが、実際蓋を開けてみると、「原爆」よりも「ロバート・オッペンハイマーという人間」そのものに焦点を当てた内容であり、そこには好感を持てた。原爆が恐ろしく、非人道的な存在であることは今更語る必要もなく、そこで広島、長崎への投下シーンを描くことがあれば、この映画はかなり表面的な反核映画、もしくは日本への“ごめんなさい(or反省)映画”となってしまっていた。それはこれまでの作品を観ていれば分かることだが、ノーランのスタイルには反する。抽象的だが意図的な、カット、カメラワーク、編集、音楽を通し我々が能動的に理解に努めることを強いられるのが彼の生み出す映画の姿勢であり、前述のような映画であればノーランが撮る必要はない。あくまでオッペンハイマーという人物を中心とし、彼の半生を描くことに注力したのは間違いなく正しかった。だからこそ、そこまで日本での公開にナイーブにはならなくても良かったのではないかという気がする。

作品のジャンルとしてはノーランの映画としては類を見ないものだったが、述べた通り、意図を持った難解さは相変わらず。オッペンハイマーが共産主義者の疑いをかけられ、没落を辿る真っ只中、つまり時系列では一番最後の物語からスタートし、それに至るまでの過程を少しずつ挟みながら展開していく。その構造だからこそ成せる伏線回収の腕は流石だった。ただそれを理解するには最低限、①勉強する時期②学者になる時期③マンハッタン計画の時期④1945年の時期⑤戦後、赤狩りの時期、この大まかだが5つのパートを彼が生きたということを事前に踏まえておけば、個人的には問題ないと思う。あとは登場人物をさらっと見ておくくらい。

ではこの映画が“表面的な”反核映画でないのなら、一体どういった作品と定義すればよいか。移り変わる時代の波に翻弄される者たちの物語であると思った。恐慌から二度の大戦、そして冷戦と、目まぐるしく変わる情勢の中各国が無我夢中になったのは自国を生かす、ただそれだけだった。そしてそれが戦争というもの意味だった。
そんな時代の最中、学を極めるオッペンハイマーはマンハッタン計画を主導し、物理学を一つのまさに破壊的な爆弾へと昇華させる。それは学問を追求する人間としての到達点であり、彼の生涯の意義でもあり、それが快感でもあったのではないか。
だから見失った。自分が生み出してしまったものの大きさは計り知れず、想定を超える力を与えたことに気づくのは、全てを成し遂げた後だった。波を我が物としたオッペンハイマーは、やがてその波に全てを飲み込まれていく。だが彼は、その波に乗っていた自分を嫌いではなかった。そしてその感覚が過ちであったことも悟っていた。だから真正面から抵抗はしなかった。
ルイス・ストローズは頑固で野心的な男だった。彼もまた時代の波に乗ろうとしていた。水爆実験をめぐりオッペンハイマーと対立する彼は、時代の変化とともに主導権を握ろうとし、大仰で危機的な笑みを露わにし、画面を去っていく。
原子爆弾の存在とその開発は悪である。“表面的な” 反核映画ではないと述べたが、その要素が一切無いわけではなく、要所要所のセリフにオッペンハイマーの栄光に責任を負わせる役割がみられる。「罪を犯した結果起きたことなのに、同情されると思ってるの?」ノーランは、オッペンハイマーという男の半生を主観的に描き、それを我々に追体験させることで、時代に振り回された悲劇的な悪魔の存在を知らしめている。そしてそれが短絡的ではないことも。彼の苦悩や、核という存在、当時の情勢、人間の愚かさ醜さ。すべてがオッペンハイマーに影響し、彼もまた影響を与えているからこそ、たった一つの絶対悪を定めるのは困難であり、するべきではない。そこに明確な答えはない。我々がどう感じるかに全ては委ねられている。

『我は死なり、世界の破壊者なり』

運命的とも言えるこの一説、彼一人に背負わせることは果たして正しいのだろうか。