Oto

許されざる者のOtoのレビュー・感想・評価

許されざる者(1992年製作の映画)
3.9
『映画術』の「視線と表情」の章で絶賛されている今作。たしかに圧巻の「静」の芝居。さりげない芝居の積み重ねが、映画を決定的に面白くする、ということを体現している。なにか特殊な設定や裏切りがあるわけでもなく、90年代にあえて老人同士の西部劇をやって、作品賞をとるだけある。近年で言えば、西川美和や是枝裕和のようなボールドで地道な作風。

まず緊張感をつくるのがめっちゃうまいなと感心した。檻の中に捕らえた敵に対して銃を渡させようとするシーンとか、隠れ家から出てきて便所に行く賞金首を殺めて逃げようとするシーン、床で死んだフリをしていた敵が実は生きていて引き金を引こうとするシーンとか、銃が1つあるだけですごくスリリングになるような人物配置が作られている。ちょうどタランティーノが台頭した時代だと思うけど、シンプルな西部劇だからこそ確かな演出力が発揮されている。

新作『クライマッチョ』のポスターには鶏がいたけど、今作でも病気の豚が描かれていて、「SAVE THE CAT」していると同時に、それが貧困という彼の問題を象徴している、というのも上手。

手を組んだ背景の全く違うトリオと、相手も同じ村にいながら対立している保安官と娼婦、そこにイギリスからやってきた作家と悪党という、お互いに身内とも敵とも言い切れないような不安定な人物関係を設定しているのも上手。『七人の侍』と近いところがある。
そのおかげで、瀕死の主人公を傷ついた娼婦が隠れて癒すという素晴らしいシーンや、窓から秘密で逃すという裏の展開、殺しに成功したと思っていたら実は身内がやられていたという失敗、など複層的な物語が展開していく。

ちょっとイーストウッドが美味しいところを持って行きすぎなのがずるく感じるというか、「もしも前借りをするならアリスたちじゃなく君がいい」と亡き妻のために娼婦とも関係を持たず、瀕死の敵にも水を恵んであげて、最後は若者に希望を紡ぎながら、自分は親友のために危険を冒す、というのはちょっと上手くいきすぎな感じもして、「殺し」の悪い側面をもっとしっかり描いてもよかったのではないか。(実際、実生活ではフランセスフィッシャーとの間に子供を作っているらしい...笑)
結局、非道なやつらだから殺してもいいだろうという私刑的な側面と、困窮している我が子たちを救いたいという個人的な欲のために動いたことで、娼婦を人らしく扱えとか親友を葬ってやれとか言ってるけど、殺したことへの後悔とかは「子供たちに俺の過去を言うな」っていうことだけで、初めての殺しをしたキッドの方が苦しんでいる。

だから最後割とめでたしめでたし、って感じになってしまって、割り切れない何かみたいなものがあまり残らなかったように感じる。『許されざる者』というのは主人公のことも指しているのだろうけど、そうなりきっていないというか。あんなに殺さなくてもよかったのでは、という後味の悪さなんだろうけど、「孤独」くらいしか主人公への制裁がないということかなー。

キッドはでかい口を叩いていたけど結局殺しの経験はなかったし、イギリスの悪党の武勇伝も嘘だったし、「弱い犬ほどよく吠える」も一つのテーマとしてあったなと感じる。

OP/EDで対応した引きのロングショット、みたいなのはこういう映画だからこそできることで少し憧れた。$1000は当時100万くらいだったみたいだけど、それを三等分しただけの金額で西海岸で成功できるほどの資金になったのかはよくわからなかった。

*映画塾の解説
・イーストウッドにとっての起死回生。オスカーと縁がなかったけど、巨匠になったきっかけの作品。同時期にスピルバーグも『シンドラーのリスト』で作品賞をとった。
・シナリオは『ブレードランナー』の人。良い人かと思ったら悪い人、という「ひっくり返る二面性」が繰り返される驚きのシナリオ。ピストル下手と言ってたのに最後銃撃戦。
・銃器のセレクトにまでこだわり抜いたリアリズム。雨が降ると撃てないという描写もしているし、お洒落な銃で保安官の見栄っ張りな性格を描写したりしている。

・「ダイム・ノベル」血も涙もない講談話として西部劇が描かれた歴史がある。その嘘までを含んで、撃ったら嫌になっちゃった老人や、実は殺したことがなかった若者を描いている。暴発や不発、当たらない弾も多い。
 =美化されているジャンルや人気者、業界の裏側とかはストーリーになりうる。
・「自警団」もの。監督は『奴らを高く吊るせ!』などでもやっている。『トゥルーグリッド』にも出てくる実在の首吊裁判官(アイザックパーカー)もモデルで、人が人を裁くのもおかしいのではないかという正義の揺らぎがテーマ。『ダーティーハリー』も正義や裁くことがテーマ。『牛泥棒』(1943)が原体験:無実の人を正義の意識で殺してしまう。西部劇へのアンチテーゼ。最近だと、『空白』にも通ずる。
・自分たちも許されざる者だという自覚がオチ。それを自覚しながらも皆殺しにして十字架を背負うという開き直り。「弱いものいじめをしたら殺すぞ」という決定的な矛盾への問いかけ。
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