emily

西瓜のemilyのレビュー・感想・評価

西瓜(2005年製作の映画)
4.9
深刻な水不足が進む台湾。テレビでは節水方法を紹介し、スイカジュースがのどの渇きに良いといわれている。海外から帰国したチャンチーもスイカジュースを作って、ペットボトルを集めて日々なんとか節水に努めていた。そんなある日、路上で時計を売っていたシャオカンに再会し、道に埋められた鍵をとってもらったり、あかなくなったスーツケースを開けてもらったり、二人は再び距離を縮めていくが、シャオカンには彼女に言えない秘密があった・・

冒頭二手に分かれた地下道を、右から歩いてくる女と左から西瓜をもって歩いてくる女がすれ違うシーンを固定カメラで捉える。そこから問題のシーンへとなだれ込む。深刻化した水不足に陥り、西瓜が町にはあふれかえっている。今や水のように必要不可欠なアイテムになりつつある。それの使い方の一つとして、女性の性器と見立てて、まるで体の一部になったようにあしらう。女性と男性の性交渉よりもはるかに瑞々しさがあふれ、滴るスイカの汁と、その独自のべとつきがエロスを纏い、そのイメージを観客に植え付ける。エロさと不可欠さが交差し、それがやがて飢えた心と愛の象徴と化していく。

今作はほとんどセリフがない。動きと表情でそのほとんどを見せる。初めて会話らしい会話があったのはシャオカンに再会したチャンチーが「まだ時計売ってんの?」と言ったセリフだ。会話といってもそこに答えはなく、その質問がなければ回想シーンを見せるしか、二人が再会であることを我々は知ることもないのだ。とにかく言葉がない上、男女のラブストーリーであるので、観客には物語の組み立ての作業が必要となってくる。

そこに時折挿入されるミュージカル調の歌と踊りだ。その歌詞に注目して、彼らの心情に+する形で、さらに物語を組み立てていく。チープなセットにあからさまな男性器をまとった物、台湾の観光地でのそれもある。スイカの意味合いも徐々に明らかになってくる。言葉がない分そのミュージカル調のものが心地良い切り替えと骨休め的に見れるのだが、実際歌詞はシンプルで、しっかり寄り添ってるものになっているし、筋を立てるのに、必要な要素でもある。

二人のシーンの数々にも当然ほぼセリフはなく、動きだけで見せる。スイカのシーンもそうだが、影だけで見せる蟹を食べるシーンは圧巻のエロスとその人間の欲望の醜さを見る。そんな汚い部分を見せ合う二人は心を許しあっていく過程にあるのが、しっかりわかる。印象的な愛を確かめるシーンもこそばゆいようななつかしさを纏って、色を添えている。足の指でたばこを吸わせたり、足の上に足をのせて、踊るように歩く二人とか、じんわりと心が温まるような純愛を縁取るシーンの数々にスイカを使った、情欲の部分が交差してくる。誰かを好きになるとどうしても切って切ることはできない体の欲望、触れたい、感じたい、全身に感じて、その愛の結晶に二人の子供がほしいと願う女の気持ちを西瓜に託している。

冒頭のすれ違うシーンも幾度となく場所を変え繰り返されていく。人はすれ違いを繰り返す中で、誰かと出会う。それは偶然という名の運命であり、人生でそんなに何度もある訳ではないのだ。そんな日常の何気ない一コマを切り取り、西瓜と水不足で、必要性と愛の形を描く。言葉がない分、観客にかなりの労力を要する。男と女が体を求めあうのは自然な流れであるが、シャオカンは自分に秘密があり、彼女が差し出すスイカジュースも飲めなかった。その愛は重く、そうして自分と向き合うのに時間がかかったのだろう。二人の純愛が重なるラストはそれは人間の欲と純愛が交わった稀な美しいシーンである。人を愛するとはその人のすべてを受け入れることである。汚い部分も醜い部分も美しい部分も全部・・・醜い部分を見て初めてその愛は本物となるのだ。
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