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大人は判ってくれないのmochiのレビュー・感想・評価

大人は判ってくれない(1959年製作の映画)
4.1
退屈な瞬間もたくさんあるし、動きが多い映画ではないけど、トリュフォーの洞察力がすごい。社会における価値観から離れて、人々を観察し描写することに長けた監督だと思う。『大人は判ってくれない』というタイトル通り、主人公のことを何も判ってくれない大人たちが描かれる。ある意味普通の大人たちなのに、それに対して嫌悪感を抱くような描き方をしている点が特徴的。出てくる大人がみんなグロテスクなんだよな。以下特に感じた点。

・最初の教員が詩について語るシーン。詩の形式に完全に乗っていなければ、詩として認めないという態度は、社会の縮図にのっていない人間を人間と見做さないという態度に重ね合わされている
・社会に対して不満を持っていて自分の境遇に満足していない多くの大人たちは自分たちの優位性を主張する代わりに、自分たちの不幸を徹底的に語ることで、優位を得ようとしている。難産と帝王切開についての2人の夫人の会話がこの象徴である
・子供に対して徹底的に抑圧的である教師だが、親が死んだと子供に言われると、急激に同情の姿勢を見せ、あたかも自分が理解者で善人であるかのように振る舞い出す
・母親は自分もかつてヤンチャであったということを子供に聞かせることで、子供の思いを大人になるための一つのステップとして位置づけ、それ自体として理解することを放棄する。その結果、そのステップを乗り越えた自分とそうではない子供、という上下を持った関係を構成しながらも、あたかも良き理解者であるかのように振る舞うことに成功する
・母親が父親に秘密の約束をしようと子供に持ちかけ、そこから良き理解者としての信頼を引き出そうとする。誰かを犠牲にすることで自己の位置を高めようとする大人の公算である
・主人公が本気で感動したバルザックの詩に感化され、そこからバルザックとほぼ同一の詩を作っても写したと言われ、主人公の生まれ変わりのチャンスは奪われる
・少年鑑別所に行ったときの母親が気にするのは世間での風評でしかない
・子供はそれまでの行動で烙印を押され、生まれ変わるチャンスはほぼ与えられていない

こうした世界の見方を提供されると、価値観が転倒して見えるからトリュフォーはすごい。ただこの映画から、幸せな人の人生も、社会に強制されたものであり、抑圧されたものなのだ、という結論を引き出すことはできないだろう。もしも幸せな人の人生が抑圧されたものだとするのであれば、抑圧されていない人生などそもそもありえない。この意味で我々の人生が抑圧されていることなど、私たちはとっくに知っているからである。他方、もしも抑圧された人生なのだ、というのが認識的前進をもたらすのであれば、それはなぜかが語られなければならないがそれはこの映画ではない。この映画で語られているのはグロテスクな大人とその被害者であって、大人全体がグロテスクだということではないからである。もちろんトリュフォーは後者を想定しているのだろうが。
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