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臨死のTenKasSのレビュー・感想・評価

臨死(1989年製作の映画)
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フレデリック・ワイズマンは当たり前にカメラの前に存在するものを当たり前に撮る。しかしそれは撮られ、我々の前で上映されることにより当たり前のように我々の目には映らなくなると、ワイズマンの映画を見るたびに感じる。
「死」は生きている以上当たり前に世界に存在し誰にでも訪れる。しかしそれは必ずしも安らぎを伴って現れない。身体のどこかが悪くなり、歩行、呼吸といった普段我々が当たり前のようにしている動作ができなくなり、死は「臨死」という形でカメラの前に姿を現した、ように見える。
ワイズマンのカメラがその時捉えるのは一つの死の接近に対して為すすべのない、死の周囲にいる人たちの姿だ。訪れ来る死に対して医師は「信仰にも似た」思いでこうしようああしようと思案し、死を少しでも遠ざけようとするか、またはそれを遂には受け入れるかといった選択を患者と、家族とともに迫られる。必ず訪れるたった一つの結果を前にして呼吸器を外すか外さないか、体力の回復を待って手術を施すかと途方も無い思案を重ねる医師たち。なぜこんなことになったのか、何ヶ月か前に来ていれば違った結果になったのかと慌てるしかない家族。そして横たわり運命を任せる患者。非常に多くの人が一つの死に関わり、悩み、涙する。それでも人は死ぬ。

また脳死というテクノロジーの生んだ人間の一つの死の形に対する解釈の議論、苦痛を伴う延命をするべきか否かなど、人が死を、如何様にして受け入れるかというさまは、長尺と長回し、そしてワイズマンの距離をもってしか表現できないものだと切に感じた。
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