臨死の作品情報・感想・評価・動画配信

「臨死」に投稿された感想・評価

生かすか殺すか。
看護師の葛藤、嘘はつけないし、苦しむ患者を見るのは辛い、だが死ぬことが正しいと思えるようになって気が楽になったと話す姿には正直だなと思った。
先日、逸見さんの話を読んだところで余計胸が苦しくなった。
もうあなたの肺は治らない、あなたの心臓は長年動き続けて衰えている等、本人も分かっているであろうことを患者に伝える責任の重さ
そして患者の家族はなんとかしてくれと頼むも延命には苦痛が伴う。
意識のない患者に伝えるならまだしも意識もあって話す事も出来る人に伝えるのってきつい。
チューブ外して自発呼吸出来るか、自発呼吸が出来ない場合はもう一度チューブを取り付けてもここから回復することはありません。その時はチューブ再度取り付けますか、それともそのままにしますか。
患者の家族は私は決められないと言って先延ばし。
先延ばししたところで患者の命が延びるわけでもない。
看護師・医師達は割と明るく話しているが患者とその家族の矢面に立つのはかなり負担の大きい事だと思うし、離職率も高そう。
日本も高齢化社会、私自身にも身に覚えのある事柄故に他人事だという気持ちでは見れなかった。
最後の字幕で閉口する。
甲冑

甲冑の感想・評価

4.0
主となる4患者の症例を元に6時間に及ぶワイズマン最長ドキュメンタリー。『サタンタンゴ』修行済みなので耐久力は付いている(気がする)ので大丈夫。合間にバナナを食うなど栄養補給術も身についた。

それに今作はああいう長回しオブスキュアな映画とは無縁なむちゃくちゃ言葉の世界だった。その時その時で患者、医師側、家族側で意思決定権が回りまくる。治療の難しさ以上に落とし所を付けるまでの医師側の慎重に慎重を重ねた言葉選びや事の運び方の難しさがひしひし伝わってくる。これ、どれだけ名医でもしゃべりが下手だとアウトだなと。

20世紀初頭くらいまでだとこんなややこしい事せず「もう死でいいだろ…」で済んでいた事が変に可能性が増えた分、家族側は「何とかして一日でも」と、医者は(ポーズでも)「最善を尽くす」とならざるを得なくなり、人命の価値や倫理観の向上、科学や医学の進歩にも功罪あるなと感じた。

「医学書には末期への対処しかなく、末期の定義がない。今が絶望的なのか大丈夫なのか計る事が困難すぎて誰に出来ると言うのか」とか「正直、数%しか生きる望みのない患者ばかりなのに立場的に『助かりません』など絶対言えないジレンマがある。自分たちがやっている事は治療と言えるのか」みたいな医師側のリアルな本音が聞けたのは収穫だった。
中庭

中庭の感想・評価

4.5
終末医療におけるクライエントとその家族への状況説明という、きわめて困難なコミュニケーションの実践の模様を、その時間の実在に鑑賞者自身があたかも同期できたような錯覚に陥らせる時間感覚で繋げた、破格のドキュメンタリー映画。全く同じ内容の説明を同じクライエントの家族へ試み続け、毎日のように討議を重ねる医師たちの表情や身振り、目線のすべてから目を離せない充実の六時間。ニヒルな笑みと相反するヒロイックな言動により個性が際立つ主治医の彼が忘れがたい。繰り返される日没と夜明けの病院の外観、川を渡るカヌーの二度の登場といった小道具で終末医療の終わらぬ仕事の円環が表現される。16mmフィルムにて鑑賞。
ryosuke

ryosukeの感想・評価

3.6
長回しで延々会話を映し出すという、個人的にはワイズマンのあまり得意では無い方のスタイルでの六時間であり、題材も相まって正直キツくはあった。ワイズマンは映像スタイルとしては、人物や動物、機械等の動きをテンポの良い編集で映し出すものの方が好み。題材が題材なのでワイズマンのユーモアセンスもほぼ出てこない。患者の上に無造作に荷物を置く看護師のシーン(唯一劇場に笑いが起きていた)ぐらいだろうか。合間合間に挟まれる外観、自動車のショットや清掃の人たちの描写が清涼剤になるのはいつも通り。序盤は衝撃であったことに慣れていく自分が、死が日常にある医療従事者の感覚を追体験しているのではないかと思ったりした。
「死」という強烈な題材は数多の劇映画で描かれ、題材になってきたが、本作を見るとドキュメンタリーの圧倒的なリアルの前に劇映画は太刀打ちできないなと思わせられる。
ただでさえ苦しい状況の中で、患者とその家族は厳しい現実を詳細に説明され、時に自らを、最愛の家族を死に追いやることになる決断を迫られ続けることになる。特に一人目の患者の、絶望的な状況を突きつけられ絶句する表情がショッキングだった。
「あなたこそが臨死のエキスパートだ」という医師のセリフにもあるように、終末期の患者を取り扱う医師にとっても面前に迫った自らの死と格闘するということは未経験であり、急遽その道の「専門家」にされてしまった患者との共同作業で人生の終幕のあり方を探っていくことになる。
廊下で話し合う医師と家族の間から、病室で一人横たわる患者が見えるショットなどシンプルながらインパクトがある。
ある患者の妻の、メンタルが弱っていても安定剤を飲みたくない、この状況をそのまま感じたいというセリフも印象的。ありのままの自分の感情、感覚とは何なのか、外部からの刺激から独立したそれなどあるのか、死という未知を前にして皆哲学的な領域に踏み込まざるを得なくなっていく。「存在している」だけで「生きている」訳ではないという家族のセリフや、医師の「意味ある生」についての思考も答えの無い領域での格闘として現れてくる。
シシフォスの神話を思わせるような医師の嘆きも印象的。彼らの仕事を勝利のない戦いであるというように表現するシーンも、医師たちの無力感が伝わってくる。そもそもいずれ死ぬのに何故生きる必要があるのかという誰でも考えるような問いが先鋭化し、剥き出しのリアリティをもった形でそこに存在している。
主治医のジョージ(延命治療に積極的であるらしい)がいない間に話を纏めておこうなどと言う医師たちの様子が印象的(撮られてるのに後で遺恨とか残らないのだろうか)。終末期の患者の処遇が院内での政治的、人間関係的な事情に左右されることもあるのだろうか。
ジョージが患者に処置の方針について質問すると、手術を拒否していたはずの意思が不明瞭になることについて、観客は最初はジョージのせいで患者の意思が歪められているのではないかと思わせられることになる。彼が間をおかないで質問することについて批判する看護師の描写から、ケアのプロと医師との違いが浮かび上がる。しかしその後別の医師が質問してみても、患者は結局ジョージに対してしていたような反応を示すようになり、最後には手術を受けることを決定する。意思などというものの不確かさ、その意思を誰が汲むことが出来ているのかも分からない混沌とした状況がそこにある。体が弱っており反応も明確ではないことに加えて、患者がその夫の希望を慮っているという要素も加わり、事態は複雑さを極めている。
看護師会議での脳死にまつわるディスカッションも面白い。ショックを与えないようにクッションを挟む目的で、まず脳死、続いて死、というように家族に伝えているが、それが誤った希望を与えているのではないかという議論が為される。脳死の段階ではっきり「死」と伝えることが結果的に良いのではないかという議論から、ケア労働の繊細さを思い知らされる。「彼は私の生命なの」と泣きじゃくる患者の妻の膝元に座り込み、彼女の足をさする看護師の姿は聖性すら感じられる。
ワイズマンお得意のさっきまで生きていた動物が唐突に「部品」になっていく描写(「肉」「霊長類」「メイン州ベルファスト」等)は、本作でも解剖という形できっちり登場し、人間も例外ではないことが分かる。
医師が深刻な会話の中で時折笑うのも印象的だった。感じが悪い訳でもなく、彼らも多分面白い訳ではないのだろうが、とにかく笑うんだよな。
英語圏では植物人間のことをvegetableと表現したりするんだな。
しかし毎日毎日死の恐怖やそれが齎す虚しさを感じながら、たまにこういう作品に触れて一層死に際のイメージを鮮明にしたりしているのは自分にとって有益なのだろうか...いつか毎日の「準備」は無駄ではなかったと思えるような瞬間は来るだろうか。
Lalka

Lalkaの感想・評価

4.7
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
伝道者の書 7章2節

作品中「死んでくれてよかった」という病院スタッフの台詞や苦痛を味わわせる延命措置についての話がある。上記の一節は「死」そのものであり「臨死」に対して語弊があるとも取れるがこういった意味で挙げたと断っておきたい。換言すれば、始まりである出産も存在する病院という場に於いて末期の患者を記録として観るのは大変意義のあることだと思うということだ。

実は初めてのワイズマンであるのだけど、彼や想田の説明の撤廃はとても良いものだと思う。「誰が誰だかわかんねえ」「この人何してたんだっけ?」と思ったっていいじゃない。鑑賞者それぞれに伝わるべきことは必ず伝わっているのだ。

人間の集中力は残念ながら1時間と持つものじゃない。故に一瞬も見逃せないとか一分の隙もないとかは言わない。そんなことを言ってしまうのはやや押し付けがましい。そりゃ1時間で寝る人だっていることでしょう。ならば言えるのは作りとして無駄がなく、引き込まれた者を離さない魔力をその作りのうちに有しているということだ。編集により残った映像と台詞、興味は尽きないし6時間経ったとはとても思えないのだ。

Charlie Sperazza squeeze my hand!と心の中で思わず繰り返してしまうし、こういう人たちに診てもらいたいと思ったりもする。

冒頭とも言える時点で人の臨終を見ること。自然に楽しくしているだけかもしれないが患者の上に荷物を置く看護師の優しさ。30代男性の遺体の検視(モロクロゆえ血という余計な情報が入らない)。執拗なまでに回数を重ねる同意と選択のための医療行為の説明と「いつでも変えていい」という自由。なかなか選択できない患者。患者を愛す夫人。末期ってなんだという疑問。脳死というものの扱いと実際の意味。あらゆる要素が、あらゆる人々の在り方と見解がすべて重要なのだ。

死に近い場所こそ学ぶものは、多いし感動がある。
mingo

mingoの感想・評価

4.5
本作観る前に新文芸坐で鉄道特集2時間2本計4時間、臨死を合わせたら10時間のデッドオアデッドの映画旅行して参りましたよ。 そのあと友人と渋谷で焼き鳥と焼肉したら流石に頭おかしくなりそうだったしご臨終しかけた。にしても6時間全然眠くならないね、生と死考えることありすぎて脳内大忙し細胞駆けずり回っとる。脳死はやはり死に一番近いからかほぼ脳死患者だったのが意外だった。みんな去年の春ヴェーラで観てたのか観客が全然いなくてなんか映画合宿してるみたいで笑った。ワイズマンけっこう観てると思いきやまだ半分いかねーわでもワイズマンの中でもトップクラスに面白いし、「チチカット〜」「肉」「ミサイル」「競馬場」あたり並みにオススメしたい傑作。ワイズマンの中でも1.2を凌ぐのは言うまでもない。弘前大学所蔵てことは流すのに毎度許可が必要なの大変、上映のレア度と上映時間を考えると観るのはきついがこれは這ってでも行くべし!
ben71144

ben71144の感想・評価

4.5
6時間という長丁場で、鑑賞前は睡魔に勝てるか?と心配でしたが…。全く時間を感じさせません。凄い映画でした。
医療に絶対は無い、どの選択肢が正しいのか、延命治療はホントに必要なのか…。
まだコンプリートしてませんが、ワイズマン作品ではダントツ、ドキュメンタリー映画では「東京裁判」と並んで衝撃的な作品でした。
フレデリック・ワイズマンは当たり前にカメラの前に存在するものを当たり前に撮る。しかしそれは撮られ、我々の前で上映されることにより当たり前のように我々の目には映らなくなると、ワイズマンの映画を見るたびに感じる。
「死」は生きている以上当たり前に世界に存在し誰にでも訪れる。しかしそれは必ずしも安らぎを伴って現れない。身体のどこかが悪くなり、歩行、呼吸といった普段我々が当たり前のようにしている動作ができなくなり、死は「臨死」という形でカメラの前に姿を現した、ように見える。
ワイズマンのカメラがその時捉えるのは一つの死の接近に対して為すすべのない、死の周囲にいる人たちの姿だ。訪れ来る死に対して医師は「信仰にも似た」思いでこうしようああしようと思案し、死を少しでも遠ざけようとするか、またはそれを遂には受け入れるかといった選択を患者と、家族とともに迫られる。必ず訪れるたった一つの結果を前にして呼吸器を外すか外さないか、体力の回復を待って手術を施すかと途方も無い思案を重ねる医師たち。なぜこんなことになったのか、何ヶ月か前に来ていれば違った結果になったのかと慌てるしかない家族。そして横たわり運命を任せる患者。非常に多くの人が一つの死に関わり、悩み、涙する。それでも人は死ぬ。

また脳死というテクノロジーの生んだ人間の一つの死の形に対する解釈の議論、苦痛を伴う延命をするべきか否かなど、人が死を、如何様にして受け入れるかというさまは、長尺と長回し、そしてワイズマンの距離をもってしか表現できないものだと切に感じた。
AS

ASの感想・評価

4.8
睡眠時間よりも長いような尺に躊躇したけど本当に観て良かった。
やがて訪れる自身の“死”に対していかに無関心であったかを痛感させられる。
死にゆく者とその死を看取る者・医療スタッフを交え濃密に議論する姿を通し、終末期医療におけるワイズマンからの答えなき問いに、この先自分はどんな答えを出していくのだろうか

2017.3.20@シネマヴェーラ
ほんとにずっと6時間しゃべってる。『病院』のように、手術するシーンが一切ない。医者が、私たちはもうほぼ助からないとわかっている患者をどうすべきなのか、そして患者の遺族と話し合いながらどうして欲しいのかを汲み取ろうとする。これの繰り返し。病院の時の電話のシーンもそうだけど、この臨死の電話のシーンも本当に引き込まれる。圧巻の6時間。
>|