レインウォッチャー

オルランドのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

オルランド(1992年製作の映画)
3.5
ティルダによるスウィントンのための…

今作の原作は、ヴァージニア・ウルフによる同題(※1)の小説。およそ1世紀ほど前に書かれたこの本は、ティルダ・スウィントンという稀代の演者に出会う時をずっと待っていたのかもしれない…

それほど、他の誰が主人公オルランドを演じられようか、ということ。他ではそうお目にかかれない、特異で奇妙なキャラクターだ。

なにせ、17世紀にエリザベス1世の寵愛を受けた青年貴族つまり男性で、詩人で、大使で、ある出来事をきっかけに女性へと《転性》し、更には30代から歳をとることなく、18・19世紀の社交界を駆け抜けて、やがては母となり現代へ至る…

性別や生死を超越した裸の魂そのもののような存在、こんなもんを体現できるのは、たぶん後にも先にもティルダ様しかいないだろう。(※2)
加えて特筆すべきは、この性転換や不死といった超常的な要素について、本の中で細かく追及されることなく(仕組みや原因を解説したりとかしない)、さも当たり前のようにしれっとそこに「在る」こと。この独特のマナーは映画にも引き継がれていて、これもまたティルダ様のどこか飄々と浮世離れした仙女の佇まいで説得されてしまうのだ。

このキャラに負けないくらい、小説自体の構成も一筋縄ではいかず、《フェイク伝記本の作家語り》のようなスタイルをとっている。オルランドの変遷を追いかけながら、所謂メタ表現を駆使して伝記作家(=著者)が愚痴ったり、言い訳を並べたりするのだ。(※3)
このエッセンスは、映画の中でも時折オルランドがこちらに目線を向けて話しかけてくる手法として一部が受け継がれている。(「第四の壁を破る」というやつですね。)

フェイクとはいえ、原作には実在のモデルがいる。ウルフの恋人だった女性詩人とその家系である。つまりは時代を跨る複数の人物の人生をオルランドというキャラクターに集約しているということ(たとえばシェイクスピアが実は複数人いた説の逆算のように?)で、この小説はそのまま《女性史》で《文芸史》の戯画にもなっているのだ。

正直なところ、映画ではこの本来の本質を表現しきれているとは言い難い。どうしても表層に留まっている印象が残るけれど、上述した通りもともとが映画化には絶望的に不向きな原作であるため、わたしとしても「じゃあどうすれば良かったのか」の答えは皆目わからない。どちらかといえば、果敢に挑んだナイスファイトを讃えるべき試みだろう。

それほど、今作はフェミニズム史的にも重要な作品であり、現代の女性監督(サリー・ポッター)が取り組む意味があったのだと思う。時代とジェンダー感の移ろいを示す絢爛な衣装(※4)や、常に魔術的な何かが霧のごとく漂っているような幻想音楽など、一本の映画としての見どころは多い。

また、この映画ならではのアレンジとして何より嬉しいことが一つ。
生き続けるオルランドが至る《現代》は、当然原作においてはヴァージニア・ウルフが生きた20世紀初頭なわけだけれど、映画ではその足が延びて、わたしたちの知る《現代》に届くのだ。

ここにおいて、「ああよかった、ずっと元気だったのね、オルランド」とか思って少なからずグッときちゃうし、ウルフの魂もまた潰えることなく受け継がれている、という作り手の敬意にも思えるのだった。

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※1:日本語訳版の本で一般に出回っている表記は『オーランドー』。軽やかなユーモアと鋭利な皮肉、尽きない比喩。わたしが出会った海外文学の中で、ベスト10に入れたいくらい好きな作品でもある。

※2:そういえば、最高のエクソシズム・厨二病・ヒーロー映画『コンスタンティン』でも天使の役を演じてらっしゃった。天使も両性具有とされることが多く、まさにといったところ。

※3:往年の少女漫画では、よくコマの間に作者のセルフツッコミみたいなのが書かれてたりするけれど、このウルフの筆致とどこか通ずるような気がする。

※4:サンディ・パウエルによる匠の業。彼女は、後に『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』やマーティン・スコセッシ監督の諸作品でも記憶に残る美しい衣装の数々を手掛けている。