Fumi

ピアノ・レッスンのFumiのネタバレレビュー・内容・結末

ピアノ・レッスン(1993年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

さまざまなテーマのクロスオーバーが、詩的に示唆されている素晴らしさは、年代に添いながらということもあり当然のように表現されていますが、

ただ抱かれれば、繋がればいいのではなくて

自分のなかの波が交じり繋がるような

心が通じていて、波が交わって、そういう感覚は、個々に固有なものであって、


人と人が惹かれることに理由などなくて、求める気持ちは、物質や、名声、正論や理屈では押し測れない。

海辺ではじかれる鍵盤の波が、ベインズの波を捉え、自分を求める誰かの熱が、それはある意味では、すでに自分のなかの波に呼応した形としてエイダを捉える

超越的な自然の欲望や、金銭といった物質、土地を切り分けるような、理屈や理論では愛を生み出すことは出来ない。そういった時代の悲しさは必然、女性にも視座を合わせる作品のテーマへと、繋がって行くのでしょう。

いつか愛するようになる、という言葉が、愚かしいのか、いまだに私にはわかりませんが、悲しい言葉のようにはずっと感じてしまいます。

いま、愛しているか、いつ、恋に落ちるか、と思っているような。

いま、愛しているなら、それは、愛しているのだと、思います。

エイダが彼に初めて深く触れられ、涙を浮かべたのは、波が呼応して、求めるような、感情的な、愛に限りなく近いなにかで、いつか、誰かに触れられたのを、思い出しからなのではないでしょうか。

ピアノを求めてやまない、ひとりの人間という自然のなかにある波。

その波の琴線に触れたベインズを愛するようになる。

生きる時間の、はやくに言葉を手放し、諦めた、彼女が自分の感性を生きる、その様をテーマに詩的に深く人を描く魅力的な作品です。


そういった、愛する人を求める、この世のなかにはどうしようもないことがたくさんあるけれど、私もどこかで、それが、原初の光のような感覚を持って、生きているような気がします。



どうしてわかってくれないのだろう、私は今すぐあなたに抱かれたいのだ、という感情は誰にでも、抱くものではなくて、女性として感情の波を持っていかれるような気持ちがする印象的なシーンでした。

THE PIANOというシンプルな原題が、静謐に深く胸を打ちます。

どこか、作品を見たら泣いてしまいそうだと思っていましたが、帰り道にサウンドトラックを聴いているとき、泣きそうになりました。
Fumi

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