Oto

愛のむきだしのOtoのレビュー・感想・評価

愛のむきだし(2008年製作の映画)
4.4
ずっと長さを理由に避けてきたけど『冷たい熱帯魚』がストライクだったから観た。長い大作に面白い作品が多いのは、逆説的に言えば長くても多くの人を惹きつけるくらいの魅力があるからかも。
園子温は日本にも数少なく存在する"操り人形ではない監督"だと思ったし、邦画を馬鹿にする前に観るべき映画がたくさんあるなと反省した。完全にファンだし衝撃を受けてしまったのでまたしても長文。

物語のきっかけが父や後妻による無愛であるのは、ユウもヨーコもコイケも『冷たい熱帯魚』のキャラ達も共通。奇跡へのカウントダウンの的な時間の描写や、ボレロなどクラシック音楽の対位的使い方、性に対する否定("男は敵")と肯定("変態で何が悪い")、形だけ存在する家族への疑問、長い上映時間、実話ベース、キャスティング、ロウソク、殺すではなく"消す"...など共通点だらけ。
しかも、コイケ(ゼロ教会)という、自分が出来ていないことを他人に説教する悪人は、卑近で浅はかな動機で動いていて、でんでん演じる村田と同じだった。かといって、彼女という触媒(prompter)がいなければ二人は気付けなかったこともあるのでヴィランであると同時にヒーローでもある。この辺りは作風を感じる。
一方で、冷たい熱帯魚の母娘とは違って、ヨーコとカオリは擬似ではなく実際に仲良くやっていた。前者は初めから過ちに気づいているけどどうしようもない例で、後者は過ちにすら気づいていないけど事件をきっかけに気づき始めた例だと思う。

「4時間もかけて何をやってんだかアホらしい」と思う人が一定数いるのがレビューを見てると分かるけど、自分はこの"アホらしさ"に憧れる。馬鹿にされる人は基本的に馬鹿にする人なんて眼中にないし、側から見たらありえないことをやるのがクリエイティブな仕事。その点ではアートも宗教も共通だけど、利益だけを追求して悪用する人がいる危険性を共に孕んでいてその部分まで真摯に描いている。たまに聞く「作品を面白いと感じられる人が面白い」というのを感じるし、辻褄が合わないとか偽物っぽいとかがどうでもよくなるのが原理的な感動。ヨーコがこぼした「全部知っていると思っていたけど何も知らなかった」みたいな反省もめちゃ大事だと思った。
股間宗教と盗撮魔から始まり、普通に考えたらありえない展開がてんこ盛りなんだけど、伝えている内容と伝え方が綺麗に一致していて、結局「愛(=自己の変態性)を恥じずに、徹底的に向き合え」という信念が両者に共通していて、監督自身がそれを実践しているので説得力がありすぎる。
コバーンもキリストも本作の登場人物達もそんな「愛のむきだし」(アクションによる愛の可視化)を徹底した例として描かれているけど、彼らを「偶像」にしてしまう現代人にとって、ヨーコやユウよりも"コイケ"という現実から目を背けたまやかしで一時的な幸せを与えてくれる対象を「マリア」と認識してしまう人がほとんどなんだろう(自分も含めて)。だからこそ、サソリという仮面を取ってヨーコと向き合う終盤には大きな感動があった。好きと嫌いが表裏一体で紙一重であることを心から感じた。

極端な作風が苦手な人がいるのもわかるけど、創作活動においては伝えたい要素を抽出して誇張して描くことは必要だし、サソリだと告白できなかったユウの勃起や血の涙も、レズとかオナニーに走ったヨーコも「愛」なのでリアリティがあった。観終わった後で自分自身の世界の見え方が変わる映画にこそ意味があるし、SNSで文章にして愚痴を言うだけじゃ何も変わらなくて作品に昇華することにこそ意味があると信じているので非常にありがたいロールモデル。
同時に「罪」も大事なテーマで、プラスになる創造性や愛は、たしかにマイナスの失敗や怒りがあるからこそ生まれるんだけど、"罪を作る"というユウの行為が間違いなのは明らか。それはきっとコイケが指摘した通りで、教会にいながら理想の自分(×神)と向き合わなかったことが原因。ゼロ教会の拉致以降、間違ってるのはヨーコだけだと思っていたけど、ユウもおかしいと海岸で気づいたし、ゼロ教会での経験を経てユウ自身も気づいた。町山さんは死んだ母の呪縛がマリアであるヨーコによって解放されたと言ってて納得。
欲という本能を原罪にしてしまうのは不幸だけど、それを言い訳にして好き放題やる人も間違い。「女湯を除く行為は、性欲ではなく男同士でバカをやったという武勇伝のために行われていて、性犯罪の自覚が薄いからこそタチが悪い」という意見を最近読んだんだけど、ユウの盗撮も性欲はないのに誰からも愛をもらえないから(父の罪を自分に向けるために)やったこと。欲に忠実であるだけでなく、自分の欲と他人の欲が交わる点を探索していくのがいつも必要で、「爆弾」もその例として描かれているのだと思った(伏線としては見え見えだったけど)。

そうやってヨーコを救ったユウがもう一度サソリに戻ってしまうのも良い。人は必ず間違えるし遠回りをするからこそ、助け合う他者とかフィクションが必要で、二人が真の愛を手に入れてそれを互いに向け合うのは4時間のうち本当に最後の一瞬だけ。しかもそこにたどり着けたのは、コイケ、親戚(松岡茉優)、テツとカオリ、盗撮仲間など、様々な人間のおかげ。「空洞」の歌詞とも重なる。
そんな感じで終わるのが悲しいくらいだったから、長さは全然気にならなかったけど、工夫として"Chapter"の存在も大きいと感じた。一つ目の大きな見せ場である「奇跡」は『桐島』における屋上のような群像劇が交わるシーンで、普通の映画ならラストに持ってきてもいいんだけどそれを前半で見せてしまうなど、そこらへんの作品の2本分以上の価値と密度がこの4時間にはあった。
見えない銃弾みたいな映像でしかできない演出も流石だと思ったし、こんな派手なのにめちゃめちゃ現実を見てる。「忙しくて助けるのは無理」って断られるシーンとか超リアルで、最近だと山口真帆さんの件で運営や警察が全く動かない苛立ちと重なった。自己の保身のために「お兄ちゃんと仲良くして」って言ってたけど、嫌いというのは大抵知らないとイコールであるというのは真理だと思う。

「急に跳ねる人はマジで急じゃない。知らんだけでずっと積んできてる。経験の蓄積が突発的なバズを産む。」というのも本当だなぁと役者陣と製作陣をみていて思った。安藤サクラ、西島隆弘、松岡茉優、10年前からこんなに素晴らしいのかと思ったし、本作も監督の23作目。女装とアクションが出来てエロに生々しさがないのは西島さんだけ、蔑みとエロとダンスができる満島ひかり、ジョーカーである安藤サクラの存在感、渡部篤郎と渡辺真起子カップルというキャスティングも半端ない。
強いて言えば満島ひかりが出てくるのが遅いのと、聖書の言葉といえどちょっと感情を直喩で言語化しすぎているとは思ったけど、一月に2本もこんなに刺さる映画を観られるの珍しい。。
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