まりぃくりすてぃ

乳房よ永遠なれのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

乳房よ永遠なれ(1955年製作の映画)
3.3
マリはまだマンモ受けたことないんだ。そろそろ一遍やんなきゃとは思ってるよ。(3Dってのがいいのかな)。。
知人Aさんが前に乳癌検査受けた時、初めてじゃないけど緊張と照れ隠しもあって、エコーの途中まで技師さんとペチャクチャを弾ませたんだって。検査のこととか無関係なこととか。そしたらね、途中で技師さんが「えっ……」と変な恐ろしげな小声を出したきり口をつぐんじゃったんだって。不安になりながらもAさんも、黙ってたって。前半のお喋りが嘘のように、そのまま静かに静かに検査終了。普段から明るいのに小心でもある優しいAさんは、一言も質問する勇気を持てずに悶々と帰宅して、、、結果が出るまでの一週間ぐらい、自分は乳癌なんだ!乳癌なんだ!死ぬんだ!と怯えて過ごしたそうな。。。。。


でも、異常なしだとわかったそうな。。。。。。。



枕おわり。

名画とされる『乳房よ永遠なれ』の感想を言おうね! 乳癌で早世しちゃった実在の歌人・中城ふみ子さん(1922-1954)の薄幸で熱い生を、本邦初のトリプルフェミ(女性脚本&女性監督)で記録した意欲作(という以上に、バネの利いた立派でアツい作品)です。
無国籍風な郷愁を(北海道ロケのアドバンテージをいきなり生かして)呼ぶファーストカットと、母性を(いささか直球すぎるぐらいに)直喩した稜線をゆったり映すラストカットとにサンドされた、生の本音がじっくりなドラマ。

撮影機ってのは、狩猟具性いっぱいだから本来的に男性的な道具だろう。一方、女性目線がこの脚本内で行き届いてないことは絶対ない。その♂♀二者の上にデンとかぶさる、絹代監督のだっこ的な目配り。それは例えば、子供たちの行儀よく素直げな好演にみてとれる。「おばちゃんの言うとおりにやってね。おはぎあげるから。飴玉もあげるから」の絹代声が聞こえてきそう。。
しかし、心地よくばかり観てるわけにはいかない作り。序盤はクズ夫役が、中盤は自発的に「女同士」が(←風呂場の小窓シーンはすごくコワイ)、そして終盤は死そのものが、いかにも “邦画の保守本流” 的にドロドロ成分をスクリーン内に流し込んできたから。

まずは、家父長制臭プンプンなクズ夫を、逆らえない妻とともに用意した序盤。
実際そうだったのか絹代(&澄江)の怨念なのかは知らないけど、今のあたしにはこういうドロっけが何とも不快。武家社会から明治維新後の富国強兵社会にかけての家父長制は、目的がハッキリしてたからまあ許せる。が、太平洋戦争での壊滅的大敗北によってそういう威張りくさる日本の男子像は(単なる凹みだけじゃ許されないほど)別次元へととっくに猛省突入してなきゃいけなかったのに、邦画内にぐずぐずと昭和40年代末頃まで残った「負け戦から戻ってきたくせに、妻や子にはカラ威張りしてみせる」暴力的な姿は、たとえこういう作品の前半ではやばや退場していく役だとしても、必要以上に見苦しい。
絹代監督が少なくとも “嘘マッチョなそういうカラ威張り” の理不尽さに対してはヒロインともども長年ストレス感じてたんであろうことは察しがつく。(最終的には1963年の大傑作『結婚式・結婚式』での絹代さんの老夫婦喧嘩演技あたりで全絹代ファンの溜飲は下がるんだろうね。。)
さて、クズマッチョ夫が退場しちゃった後は、優しい紳士・堀先生(モリマ)を露払いに、善良な短歌仲間、そして女性上位的なぐらいにスマートさを持ち込んでくれる新聞記者大月(葉山良二さん)、、、が次々と画面を占め、イケメンビュッフェな映画となる! おそらく絹代監督もご満悦だね。
しかし、せっかくの新生活描写によって薄まったドロドロは、(先述した巧い巧い風呂シーンなど)別種類の情念描きによって再び濃くなる。あくまでもドロドラマで行きたかったんだ? 男性優位の邦画における女性描きの閉塞に風穴開けたかった絹代さんが、結果的には保守的な囲いをさほど出ないドロドラを作った、とあたしはみる。現代視点から文句ばっかりつけるのはフェアじゃないけど、とにかくドロドロなものは嫌いなんだよ(笑)!
『東京物語』でいい味出してた大坂志郎さんが演じたヒロイン弟とその若嫁は、ドロとは終始無縁でホッとさせた。新時代と旧時代が交じり合う、リアルな敗戦後映画でもある。

で、全体はどうだった? 事実を基にしてるぶんだけ、脚本はアレもコレもな感じかも。前半は幼子らが、中盤はビュッフェ軍団が、終盤は(恋愛ももう無力で)重たい死そのものが主となり、惹きつけ方の一貫性はない。ずっと存在感を減らしてた子役たちが終わりにだけ感動の具として再フォーカスされても、強くは胸に響かない。要するに、実話ゆえの遠慮が総花に?
ほかに退屈さの一因は、主演女優(月丘夢路さん)の、一流だけど一流を超えまではしなかった演技力だな。彼女は感情や思念や生活感の表現が巧くて一見完璧なようだったが、「癌患者らしさ」を真にリアルに出せたわけじゃなさそう。息も絶え絶えに細い疲れきった声を出したりするのは、厳しくいえば学芸会の延長の延長でしかない。心身ともに健康な売れっ子女優が自分の頭に描いてる「病人とはこんなもの。末期癌患者とはこんなもの」というイメージをただ表出しただけ?
月丘さんについてはこれが結論。もしも真に憑依すれば、逆に安直な記号的な弱々しさなんかを超越して「刻一刻と変化する体調・気分・闘志・プライド」とか「意外に元気な死に際」とか「命が尽きるまで、こうしたわよ」を1.3倍はリアルに表現できたはず。そこんとこ、絹代監督がきちんと指導しなかったんだと思う。たぶん。

稜線が乳房の直喩なら、時々出てきたポプラ並木は男性性を? それは考えすぎかな。
それと、鏡を時々用いたのは、ステキだけど、ちょっと小道具感丸出し。手術シーンは意外に骨太に迫ってきて良し。外科的考証もいろいろ合格なんだと思う。(男性も乳癌になりうるって言わせてるし。)
よく頑張った映画だ!
 

あと、劇中に散発された中城ふみ子さんの短歌は、もちろん全然悪くないが一首ほどを除いて特別には耳に残らなかった。単に相性の問題だけども。たまたま最近読んだ片山広子さん(1878-1957)のほうがあたし的にはグーーッと来る。

選   女てふ迷ひの国を三十路ほどあゆみあゆみて踏みしほそみち

特選  我が世にもつくづくあきぬ海賊の船など来たれ胸さわがしに

(選者・マリ)

とりあえずマンモ受けよっと。そんなに痛くはないらしいから。。