開明獣

遙かなる帰郷の開明獣のレビュー・感想・評価

遙かなる帰郷(1997年製作の映画)
5.0
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それは男が着ていた収容所の縞模様の作業服と、男の腕に刻印された数字だ。

その男の名はプリーモ・レーヴィ。

イタロ・カルヴィーノ、ディーノ・ブッツァーティと並ぶ、イタリア戦後文学を代表する作家。化学者でもあったレーヴィは、ネオレアリズモ以降のポストモダンな作風で、科学者らしいファンタジックな作品を得意とした。「天使の蝶」が、関口英子氏の名訳で、光文社新古典文庫で読める他、「周期率」という傑作短編集が翻訳されている。イタリア最高の文学賞、ストレーガ賞を受賞した、"Monkey Wrench"は、未翻訳で、英語版のペーパーバックが、うちで誇りをかぶって静かに出番を待っている。私が大好きな作家の1人だ。

本作は、そのレーヴィが二次大戦での体験を書き記したノンフィクションがベースとなっている。本邦では「休戦」という題で岩波文庫から入手可能。

レーヴィは、トリノ生まれのユダヤ人。パルチザンと一緒にいる時にナチスに捕まり、アウシュヴィッツに送られてしまう。その時のことを記した、「これが人間か」は世界的大ベストセラーになり、これも邦訳が出ている。ナチス関連文学として、ヴィクトール・フランケルの「夜と霧」と並ぶ名作と位置付けられている。

この「休戦」の原題は、「真実」。アウシュビッツがソ連軍の手によって解放されてから帰郷するまでの遥なる道のりを描いている。この邦題はとてもうまくつけられている。

アウシュビッツから、ポーランドのクラクフへ。そこからなんと南下するのではなく、鉄道が破壊された関係で、ソ連へと一旦北上し、そこからルーマニア、ハンガリー、そして最後はドイツのミュンヘンを経てトリノへと至る。のべ8ヶ月もかかった気の遠くなるような大周りの大移動は、激しい困難を伴うものだった。大分を徒歩で移動しており、戦後すぐということで食べ物もない中、レーヴィは、共にイタリアは帰る仲間と出会い、行く先々で、言葉も通じない地元の人たちと交流する。

監督は国際三大映画賞を制覇した、名匠フランチェスコ・ロージ。主演を、パルムドール男優賞受賞俳優の、イタリア系アメリカ人、ジョン・タトゥーロが演じている。本作は、ロージ監督の遺作となった。イタリアのアカデミー賞である、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の作品賞と監督賞を受賞している。特筆すべきは、制作にはドイツも参画していること。過ちを認めて隠さず、むしろ後世への糧として記録に残そうとする姿勢は評価に値する。南京大虐殺をテーマにした作品に、日本が制作協力するようなものだ。

ネオレアリズモを得意としたロージ監督らしく、派手なシーンや過激な残酷場面はない。タトゥーロも抑えた演技で、最初から最後まで淡々と進んでいく。原爆文学で言えば、竹西寛子の「管絃祭」のような趣き。悲惨さを強調して訴えるのではなく、その時のありのままを静かに活写していくことにより、作品のリアリティが増している。これは娯楽作品ではないのだから、それは正しい在り方のような気がする。

「これが人間か」からの引用文で締め括られる本作は、かように原作も名作、監督も巨匠、主演も名優、本国イタリアでは最高の栄誉を受けているにも関わらず、我が国ではジャケット写真もなく埋もれている。自分も偶然、Amazon Primeで見つけたものだ。あと10日ほどで見放題は終了だとのこと。アウシュビッツ解放後も、戦争は終わっていなかった。戦争の爪痕は、戦後も残り続ける。そんなメッセージを受け取ることの出来る名作に出会えて良かった。

我が国で軍備増強を当たり前のように続ける現政権と、それを支持するものたちは、もしも本作を観たとしても何も感じないのだろうか?戦争という残虐な悲劇が何をもたらすかを理解して欲しいと心から願う。次の世代のためにも。

レーヴィは、作家として成功し家庭も持ったが、鬱病に悩まされることになる。アウシュビッツを経験した多くの人に訪れるPTDSの一種だろうか。本作の公開を観ることなく、自宅で謎の死を遂げている。自殺ではないかとの見解もあったが、遺書がないことから、当局は事故死として処理している。

トリノにあるレーヴィの墓地の墓碑銘にはある数字が記されている。

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