過去に観た名作のレビューを今頃書いてみるの巻。第三回目は、泣く子も黙る(?)巨匠、フェデリコ・フェリーニの「甘い生活」。
退廃的な生活に溺れるローマのセレブ達の合間を泳ぐように生きている主人公、マルチェッロは、そんな生活に反発しながらも、愉悦も感じるという相反する2つの感情を抱いている。身勝手で、奔放で、女好きというのは、ゴダールの「勝手にしやがれ」の主人公もそうであったな、と苦笑い。ピカレスク・ロマンとは、またちょっと違うが、自暴自棄な生き様は、どこにも行けない閉塞感を感ずる現代社会への批判の現れなのだろうか。
日々行われる乱痴気騒ぎの極限化したものが、「バビロン」でのパーティーだとしても、ここには「バビロン」のような何かを産み出していく予兆のような爆発的なエネルギーはない。あるのは、熱を失って収斂していくだけの白色矮星のような鈍い輝きである。
マルチェエッロは、何かを成し遂げたいと感じながらも結局自分には何も出来ないことを痛感している点で、「イニシェリン島の精霊」の指を切ってしまうコルムと同じなのである。パートリッジは、現状の怠惰な生活に倦むことなく惰性で生きているその他有象無象の連中と同じであろう。シチュエーションを変えれば、どんな時代にも演繹出来るストラクチャーは、むしろ古来からあったものかもしれない。
たとえ無垢な心が呼びかけてきても、その声は沈黙してしまうか、或いは届かない。どこにも行き場のない魂の彷徨は、よるべのない浮草のような今の時代に生きる私達とも、そう大して変わりはしない。
3時間近い大作は、今観てもとんでもなく心に響くというほどでもないが、時代を超えた普遍性を感じさせてくれる作品。偉大なる先達の業績に感謝!