まりぃくりすてぃ

コタンの口笛のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

コタンの口笛(1959年製作の映画)
1.6
イカンテばあちゃん役・三好栄子さんの魂の演技に、私はしばらく泣きっぱなし!!
それ以外は、最低最悪作品。ほかにどこを褒めれるの?

たかが映画製作会社のくせに東宝は、現代日本文学最高峰長篇である『コタンの口笛』を映画にしないでよ。たかが映画監督のくせに成瀬は、嵐と光(受難と和解)を描ききった世界児童文学屈指の名作である『コタンの口笛』を撮らないでよ。討ち死にしてるじゃん。
何~~~んも知らない人のために言っておくけど、この映画、場面の進み方とセリフのほとんどは原作どおりだよ。映画が映画として独自に書いて撮ったものなんて何もない。成瀬は何も・や・っ・て・ま・せ・ん。そのくせ、原作の前編(と後編の冒頭)までで、ブツッ!と切って終わらせてる。いったい何なのこれ!!
姉弟の真冬の苦闘も、その後のキリストの愛の教えに絶妙に触れての和人(日本人)たちとの握手抱擁も、まったく描かず尻切れトンボ。「北海道ロケした」などと謳っておいて、夏場だけしか撮りたくなかったんだね? 「寒いから。大変だから」というただそれだけの理由で。名匠なんて崇められてる成瀬の正体はこれだよ。読書不足のシネフィルたちはそういう大事なことに気づきな。
原作にひたすらオンブにダッコなくせに、肝心の吹雪のシーンを丸々省略だよ。小雪さえ出てこない。凍えるのイヤなら、アイヌ映画なんて作るな! 
その前に、ユタカとゴン(後藤だからゴンなのになぜか佐藤になってる)との決闘シーン、原作では真っ暗な夜なんだけど、撮影では「夜八時」と言っておきながら夕方か昼間の明るみの中。成瀬は、夜の決闘を撮る技量がなかったんだね。何が名監督だ?
それに東宝、あんたたちのやった一番のミステイク。姉・マサは、あんな平凡容姿じゃダメなの。「とても日本人には見えない、いかにもアイヌで、しかも、目の覚めるような美人」っていうキャスティングにしなきゃ物語が心理的に成り立たないんだよ。原作者・石森延男はマサをこそ最も愛してたんだから。それを、単に「二重瞼だし、まあまあ可愛い」ってだけで幸田良子さんを東宝は選んだ。どっから見てもこの子はただの東京かどこかの日本人(和人)じゃん。そのマサをいじめる大金持ちの女子後藤ハツ役とか、クラスメートたちをやけにブサイク(一重瞼)ばかりにして、バランス取ってるつもりだったんだろうけど、、、マサらの喋り方にしても拙い演技や雰囲気にしても、その頃のよくある古臭い東宝映画にすぎないじゃん。やる気あったの? そんじょそこらの凡作文学の映画化だったらそれでも許されるけど、傑作中の傑作『コタンの口笛』だからね、絶対にこんないい加減な取り組みはNGなんです。
東宝と成瀬の至らなさを、本当に本当に、脇役の三好栄子さんの熱演だけが補った。恥を知りなよ東宝と成瀬。スター軍団の宝田明さん・志村喬さんらは、ほかの俳優と交代してもかまわないぐらいにどうでもいい演技力しか発揮してない。
一応、一カ所だけ画づくりのセンスを褒めておく。一カ所しかないから、成瀬は心して読みなさい。それは、イカンテの埋葬のとこの、真ん中に田沢先生(志村)、左奥に清(久保明)、右奥にマサ&ユタカ(幸田と久保賢)を配した構図。なかなかに安定してた。それだけ。ほかなし。
演技的には、ユタカとゴンのやりとりが(まあ全部、原作のまんまだけど)見ていて充実かな。岡野くん・さち子のキャスティングは悪くなかったよ。

さて、脚色の橋本忍は、“原作に忠実に、そして途中でブツッと断ち切って適当にまとめよ” との東宝の命令をとてもよく守ったわけだ。セリフの置き場所の微細な改変や、原作になかったはずのマサの恋愛感情をこしらえたり、ほかに「誰かの落とした魚一匹を拾って家に持ってきて母に叱られたマサ」という元の話を「川から鮭一匹を密漁してイカンテばあさんに届けようとしてワカルパに諭されるユタカ」へと曲げたりしつつ、最大の仕事、とにかく中途ストーリー放棄の不自然さ(心の嵐も最後の和解も一切消したことの圧倒的中絶感。口笛にも意味なし)をどうごまかすかに全力尽くしたみたいで、原作をまったく知らない人への提示映像物としてはまあ必ずしもメチャクチャではない。「問題未解決のまま、とにかく前向いて生きていこう」という歩みの問題へと切り替えたわけね。(むしろ、原作の後編のほとんどがこんな映画なんかで明かされずに済んだのは逆に幸いだったかも。グッジョブだね、橋本。さあみんな、読書だ、読書。)
とにかく、成瀬と東宝はダメだ。世にはろくな映画がない。


さて、私のここまでの大正論に何か不満がある人、いるわけないけど、一応、補足的に、なぜ『コタンの口笛』が日本文学の全長篇の中の最高傑作なのか、根拠をちょっとだけ書いておきます。
まず、世界文学の最高峰は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』です。これは、もう、絶対の定理です。そして、現代日本文学(短篇を除く)の中に『カラマーゾフ』に匹敵する作品を探したら、『コタンの口笛』が主題性・物語性両面において最もレベルが近い。というか、ドストエフスキー的な長篇作品はほかには一つも存在しません。(神と人との愛憎を縦糸に、人と人との愛憎を横糸に、深い洞察と誠実さで人間世界そのものを織り上げる、という主題の高さ&主題からの答えの確かさが、『カラマーゾフ』と『コタン』とにそっくり共通する。)したがって自動的に、『コタンの口笛』は現代日本文学の最高傑作なのです。
それに対して、映画って何なの? 
映画には、ストーリーやナレーションやセリフがある。これらは、文学的要素なの。そして文学には(たいていの地域において)何千年もの歴史が既にある。
映画には、演技や演出もね、あるね。これらは、演劇的要素なの。もちろん演劇も、各地で千年超の歴史をもつ。
映画が音楽を取り込んでる場合も多々。音楽には、もちろんもちろん何千年もの歴史あり。
そして映画の、画部分の、構図・色彩・陰影、そういったものは絵画的要素。絵画だって、千年前からあるね。
そういうわけで、総合芸術として何と何と何を巧みに化学反応させ合ってるかとか、なんてのは結果論であって、とりあえずカメラを動かして何をどう撮ってその撮り方やつなぎ方がどう天才かなんてのは、たかだか百年の浅い浅い歴史しか持たないんだからどうでもいいの!
映画はあんまり威張っちゃダメなんだよ! ちゃーんと文学を学んでる者が「脚本は、大事だよ」って言ってあげたら、それに逆らっちゃダメなの。「演技、ちゃんとしろ」って言われたら、「ハイッ」と答えるべきなの。「映像」「映像」「映像」って、うるさいんだよ。自分で撮影機を発明した人だったら無限に威張ってもいいけど、人の物をただいじくってるだけなんだから、もっと謙虚になれ。
とりあえず、『コタンの口笛』という最高の文学に、成瀬なんかが変に手をつけて大火傷したのが、本作だ。あのクロサワも、芥川龍之介の超傑作『藪の中』をとんでもない駄作映画(題はなぜか『羅生門』)へと変えて、真に文学を知る者から大失笑され続けてる。何十年も。これわかってない人多いだろうけどね。

あ、ところで、映画は歴史が浅すぎてほかのたいていの芸術に対して低姿勢でいなきゃいけないんだけど、大逆転は可能だよ。そのポイントを書いておく。私、優しいから。
映画には、わずか百年、静止カメラにも、わずか二百年の歴史しかないけども、映画(映像)はほかのどんな芸術の影響とも無縁に “人間そのもの” を写実できる。つまり、動画として撮ることにより、人間をただ人間としてありのままに記録保存できる。そして、「人類史」は、文学や演劇や音楽や絵画の歴史よりも圧倒的に古く長い。何億年も前から人は人として生きてきた。
後発の芸術でありながら、映画は、人の真実に、最大効率で肉薄することができる。映画は何よりも勝ちうるかもね。
だから、人を、人の真実を、私なんかは観たいんだ。人間が真に「いる」映画が好きなんだ。「映画はすべて、嘘」なのか「映画ほど正直なものはない」のかとか、そういう言葉遊びはどうでもいい。本物だけを、作ればいい。

とにかく失敗作だ。