樽の中のディオゲネス

パラサイトの樽の中のディオゲネスのレビュー・感想・評価

パラサイト(1998年製作の映画)
3.5
 DVD特典のインタビューで、ロドリゲス氏は、本作のテーマが若者の感じる「疎外感」だと語っています。そして、その「疎外感」を、若者の専売特許ではなく、普遍的なものにするのが、脚本の役割だということです。
 「疎外感」は、自己を客観的にみなければ生まれません。言い換えれば、自我が生じることで、自らの「疎外感」に直面するのです。若者は自己を見つめ、省みることで、自分の存在に疑問をもちはじめます。そして、他者と自分との差異に気づくことで、かたや自信が生まれ、かたや不安が生じるのでしょう。いずれにせよ、この差異は、「みんなといっしょ」的思考を排除させ、「みんな」からの「疎外」を迫るのです(だから私たちは画一主義的な教育にすがるのでしょうけれど)。
 大人になれば、こうした不安や「疎外感」に打ち克ち、立派な社会人になるものだと考えたくなります。不安や「疎外感」について、あれこれ考えることは小便クサいのであり、極東の島国ではそれを「中二病」と名付けています。けれども、私たち人間は、不安や「疎外感」に打ち克つことなどできるのでしょうか。むしろ、そうしたことを意図的に考えないようにすることが、大人になることなのではないでしょうか。
 本作において、「疎外感」の象徴は、宇宙より飛来したパラサイトなのですが、それはグロテスクで気味が悪いのです。サルトルが「粘液的」という言葉をよく使っていましたが、まさにそんな言葉がぴったりの存在です(「粘液的」とは、たとえばドロドロしたものを掴んだと思ったとたん、それが人間にまとわりつき、それに所有されているかのように感じるような、物体の人間にたいするリベンジを表す概念)。「粘液的」なパラサイトが、「疎外感」の象徴なのですから、いわば人間が「疎外感」に打ち克ったと思ったとたん、逆に人間が「疎外感」に押しつぶされそうになる、ということが表現されているのでしょうか。
 ロドリゲス氏が、「スパイキッズ」シリーズを作ったり、本作を作ったりしているのは、単に子どもも楽しめる娯楽映画を作りたいからだけではなく、大人になって忘れがちな純粋な心情や思考を、観客に思い返させるためでもあるのですね。なんて素敵な監督でしょう。