ルサチマ

偽大学生のルサチマのレビュー・感想・評価

偽大学生(1960年製作の映画)
4.8
連合赤軍から50年目の節目にあたる2022年の最後に『偽大学生』が上映されたことは非常に貴重。画面手前に中心となる人物を配置し、画面奥に多数のエキストラを配置する構図が頻発する。このエキストラの配置が明らかに意図的になされているがわかるのは映画前半、警察署の前で革命会の人間が学生たちに声をかける場面で、この時背景にデモを呼びかける車が一台通過する。もちろん車が撮影時に偶然そこを通りかかるわけはなく、このカットのためにピントも合わないにもかかわらず大型の車を用意した痕跡がそこに刻まれている。
画面手前の中心人物はこの画面奥にいる「我々は〜」を主語とする学生運動の参加者たちをいかにして自分らの党に属させるかが問われるかのように振る舞う。映画のクライマックスで部室にやってきた偽学生であるジェリー藤夫は既に偽大学生であることが露呈してるにもかかわらず、しかし自らを東都大学の学生だと主張し、ホンモノの東都大の学生にバンザイを呼びかけることに成功してしまうからこそ、このラストは悲劇的だ。もちろん、その前に若尾文子が同じシークエンスの中で「あの部室に卓球台を持ち込んだのは誰?」「歴史研究会の札を外したのは誰?」と呼びかけた行為と、その場面がほぼ例外的に画面手前に多数のエキストラを、画面奥に若尾文子(学生運動の参加者で数少なく「私」を主語とする)を捉えていたことは決定的に重要であるはずで、そうした呼びかけが画面手前のエキストラを惹きつけることができなかったことの無力さが際立っていて見事としか言いようがない。
だが個人的にこの場面の描きこみと同等に、もしくはそれ以上にこの映画の風穴を開ける可能性の痕跡として重要だと思うのは、若尾文子の父(戦前の政府に最後まで抵抗し、転向することのなかった人物)が、「いかなる時でも法を犯してはならぬ」という、明治以降の内村鑑三的な日蓮の「依法不依人」を的確に導入し、若尾文子や彼女の属する歴史研究会の人間を批評していたことだ。
戦前の政府が戦争(暴力行為)へと傾いていったことを批判する学生運動の参加者たちは、自分たちを先進的な思考の持ち主であるかのような台詞を矢継ぎ早に発するが、戦前最も政府に抵抗した人自体が、帝国主義の時代である明治期の思想を踏まえつつ、戦後の若者を批判したことは今日においても有効な批評精神だと思う。戦後におきた今日にも通じるあらゆる諸問題は帝国主義時代に目を背けて新しさばかり語ったところで何ら発展はないのは明らかだと言わんばかりのこの若尾文子の父の存在は、わずかな出演シーンしかないが強烈な重さとして映画にのしかかる。
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