【非モテ男子視点で見ると】
『今まで何も積み重ねて来てこなかった人間が いきなり勝利を手にする事なんてできないんだよ!』
と言う厳しい現実と
『でも負けたままで終わるのか?男だったら負けるとわかっていても 立ち上がらないといけない時があるんだよ!さぁ走り出せ!』
と言うメッセージが込められた、非モテ男達への手荒い応援歌のような映画。
ちっぽけなプライドにしがみ付き、動かないでいる間に、 全てを奪われ、追いつめられた主人公、田西が最後の最後のドン詰まりで、怒りを爆発させるクライマックスが悲しく、痛い。
やりたい事があるのに、現実から目を背けて、怠けて、後回しにして、行動を起こさず、日々を無為に過ごしてしまっているヘタレ男子はこの映画を観て自分に気合いを入れ直すといいと思う。
これは2010年日本の『ロッキー』だ!
まぁ、エイドリアンは振り向いてくれないんだけど。
【女性キャラ視点で見ると】
『ちはる』というキャラクターは『ちょっとかわいい』『処女』と言う『価値』だけを認められて青山と交際を始められるが、その『価値』を味わった後、 ボロ切れのように捨てられる。
つまり、ちはるも田西同様、女としての『付加価値になりうる人生体験』を 何も積み重ねてこなかった『自堕落な人間』だったからこそ、必然的に捨てられてしまったのだと読む事もできる。(ちはるの堕落した汚部屋描写を見よ)
つまり、田西とちはるは『積み重ねてこなかった者』同志として
表裏一体の存在なのだ。
さらに言うと、冒頭テレクラで田西と出会ったデブ女は 『女なら誰でもいい!』レベルにまで飢えていた田西に 『勃起』さえしてもらえない存在として描かれる。
つまり、この映画で描写される恋愛の食物連鎖は
モテ男(青山)>モテ女(ちはる)>非モテ男(田西)>非モテ女(デブ女)
という図式で描かれ、結局の所、日本社会の恋愛階層は男性優位な物でしか無いと言う、身の蓋もない現実が (作者の意図する所かどうかを別にして)立ち上っているように僕には見えたのだが、考えすぎだろうか?
【原作ファンからの視点で見ると】
原作の『ちはる編』だけをクローズアップした単行本で言うと5巻までの物語を映画化しているので、花は登場しません。
また、ラストが物語的には同じだけれど、原作と解釈が真逆になっているので、原作にあった絶望的な喪失感は無く、むしろ爽快感のあるラストとなっています。
このあたりは映画を辛くしすぎない為の救済措置だったのかなと思うけど、原作通りのラストなら、もっと衝撃的で、トラウマに残るような作品になったんではないかな・・・と思うと少し残念ではあります。