中学生のころ、エヴァ完結篇で受けた心の傷を癒してくれたのが本作だった。
23年経って再び劇場で観る機会に恵まれるとは……レイアウトの良し悪しはさっぱりわからんけど、久々に見ても飽きることなく画面に釘付けにさせられた。宮崎駿56歳の見事な仕事を観た。
が、劇場で細部までつぶさに見るとちらほら「ここはそれでいいのか」と思わされるシーンがなくもない。
シシ神は水の上を歩くのに何で池の底に足跡があったのか。
多分、水の上を歩くというアイデアを後になって思いついたが、もう最初の方のシーンが出来上がってしまってるので修正できなかった、という宮崎作品ならではの事情によるのだろう。
それはいい。
しかし、再見して本作が高畑勲の「平成狸合戦ぽんぽこ」を受けて作られた前日譚のような作品という印象がより自分の中で際立った。
あの時代、まだまだ人々はタタリや呪いや神秘的な神々の存在を信じ敬っていた。神秘主義が圧倒的多数派であった時代にエボシは異端で変人であったが、恐れを知らぬがゆえに強さを手に入れ、王国を築きつつあった。
しかし、まだまだ彼女のような合理主義者はマイノリティでともすれば罰当たりで文化、風習を愚弄する者して爪弾きにあったことだろう。
もしこの時代に狸たちが妖怪大作戦を決行していたら、狸たちが大勝利を収めたであろうことは想像に難くない。
だが、たった一人。強大な力を持った合理主義者が兵を率いたら、どんなタタリも呪いも彼らの進撃を止めることはできない。
エボシがシシ神の首を落とした瞬間、500年後の狸たちの敗北は確定したのだ。
それを思うとなんだか、切ない話である。
今回、エボシの演技、演出をじっくり見ることができたために彼女の人間的、指導者的な懐の深さがよく見えてきた。
天朝の書き付けを村の女たちに見せたあとの「いいよ」の優しく、柔らかなニュアンス。ジコ坊にアシタカは来たかと問われて言った「去った」の言葉に見え隠れする寂しさ。
エボシはああいう時代にあってまっすぐ直向きに生きて死のうとするアシタカを心の底から面白いと思ったし、その純粋さを側に置いておきたかったんだなというのがしみじみ伝わった。
あと関係ないが、かつて乙事主と良い仲だったモロの「言葉まで失くしたか」があまりに切なくてちょっとうるっときた。