耶馬英彦

歌声にのった少年の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

歌声にのった少年(2015年製作の映画)
4.5
 「祖国」という言葉を世界からなくした方がいいと主張すれば、世界中から反発を食らうだろう。しかしいまやグローバル化の時代である。ヒトもモノも自由に行き来する。映画をはじめとして文化も自由に国家間を行き来し、我々は他国の文化を存分に享受している。
 政治家の二重国籍を追求するような幼稚な精神性の国もあるが、世界は、自国も他国も公平に均等に尊重する時代になりつつある。外国を居住の拠点として世界中で活躍している人も多い。彼らにも祖国はあるが、祖国に拘泥する生き方はしていない。どこに生まれたかよりも、現在の自分の存在そのものを優先しているからだ。

 祖国という言葉は、故郷という言葉に似ているが、ひとりの人間の故郷が他の人間の故郷に対立しないのに対して、ひとりの祖国は他の人間の祖国に対立する意味合いがある。つまり、故郷同士が戦争をすることはありえないが、祖国同士は戦争をすることがあるのだ。
 それは故郷という概念が人それぞれの記憶の中に存在するものであることに由来する。同じ地域の出身者でも、時代が違えば故郷は異なる。山が削られ海が埋め立てられて、工場やらビルやらが軒並み建ってしまったら、その前と後では同じ故郷とは言えないのだ。故郷という概念はどこまでも個人に帰属する。
 対して祖国は、厳然として存在する共同体であり、帰属意識も高い。しかも排他的である。祖国の対義語は異国であり、すなわち敵国だ。必然的に同調圧力も高くなり、国民の精神性が国に依存することになる。近代の戦争は、指導者が祖国という概念にまつわる精神性を利用して、自国民を戦場に送り込んだのだ。
 国家という共同幻想を相対化し「祖国」の呪縛から精神を解放する時代にならない限り、世界から戦争が終わることはない。国家と故郷は異なるのだということを理解しなければならない。

 この映画の主な舞台はパレスチナであり、とりわけガザ地区だ。度重なる戦争の歪みを未だに背負い続けている地域である。そして祖国同士の争いを現実の被害として被っているのがパレスチナの難民だ。主人公ムハンマドが運転するタクシーの窓から映し出される破壊された街の様子が生々しい。片脚あるいは両脚を失った人が街のいたるところに何人もいる。そんな難民にも日常生活があり、束の間の平穏もある。しかし子供たちはガザに未来がないことを知っている。
 映画は、歌の才能があるムハンマドがその才能を生かしてガザを抜け出す物語だが、インタビューを受けたムハンマドが「祖国」という言葉を万感の思いを込めて言うことに、世界の問題の深刻さがある。この映画は、自由を人間性を求める一方で、祖国の呪縛から逃れられない人間の張り裂けそうな悲痛の思いを比喩的に表現している。安易なサクセスストーリーとして受け取ってはいけない。

 世界中の人が観るべき作品である。
耶馬英彦

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