ベイビー

イノセンスのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

イノセンス(2004年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

人は手足を巧みに使い、自動車を運転します。その自動車を動かす手足に命令を与えているのが「脳」です。端的に言えば「脳が車を動かしている」ということになります。

近年、科学が進化し、義手などの義体の性能も上がっているそうで、脳から筋肉に送られた微弱な電気信号を数値で読み取り、その信号をロボットのような義手に送ることで、義手が本当の自分の手のように操ることが可能だそうです。
さらにその電気信号をネットに繋げれば、何千キロ離れた遠隔操作も可能ですし、逆に義手に電気信号を与え、それを脳にフィードバックさせれば、触感も感じられるそうなので、人は仮に手足がなくなったとしても、機械の手足で生活や感覚を補える未来は遠くないそうです。

上の二つの話を踏まえれば、人間にとって、自我を持って生きるのに唯一必要なものは「脳」だということになります。進化する義体の話を用いれば、機械の手足を脳が受け入れれば何も不自由なく生活ができるということにますし、脳を使って手足を動かし車を運転している現状を客観的に捉えれば、車は手足の延長で、義体の一部だと言えるのかも知れません。

極端に言えば、前作の攻殻機動隊(ゴースト・イン・ザ・シェル)という映画は、そういうことを言っている作品で、自分の「脳」と「ゴースト」さえしっかり保たれていて受け入さえすれば、自分の身体がたとえ自動車であっても電子レンジであってもいいことですし、さらに極論を言えば、自分が自分だと認識できるゴーストさえあれば、身体を持たずにネットの中で彷徨っていてもいいと言っているのです。

しかし、今回のイノセンスという映画は、失おうとしていた「身体」がテーマになっているように思います。

この物語は、愛玩用のロボットが人間を殺害するところから始まり、「何故ロボットが人間を殺すのか?」「ロボットに意思はあるのか?」という疑問から事件を解決していくのですが、事件の結末は「ゴーストダビング」という愛玩用のロボットに人のゴーストを焼き付ける違法行為のために誘拐された子供が引き起こしたもので、「だって私、人形になんてなりたくなかったんだものー」という理由で、ロボットに殺害を働かせたのです。

その言葉を聞いたバトーは、「たくさんの犠牲者が出ることは考えなかったのか」と子供に怒鳴りつけます。「人間じゃない、ロボットの方だ」とも。

バトーは、自らの肉体を持たず広大なネットの中を彷徨い続ける素子のゴーストのこと、多くの割合で構成されている自分の義体の身体のことを考えれば、ゴーストが何処に宿っていても、何処に棲みついていても、何にもおかしなことはないと考えるでしょうし、たとえ元は人のコピーだったとしても、一旦ロボットにゴーストが宿ってしまえば、一つの生命体だと認識しなければならないと考えるはずです。

そんなバトーだからこそ、飼うのに手間がかかる犬を飼っているのではないでしょうか。イシカワに怒られながらも犬を飼い続ける理由は、そこにあるのではないのでしょうか。

犬から体温を感じ、心臓の鼓動を聴き、「自分が世話をしなければ、こいつは死んでしまう」と実感している。犬は「ゴースト」の器ではなく、「生命」の器だと感じるからこそ、自分に命が宿っているという感覚を再認識している気がします。だからこそバトーは、肉体を捨てず現実にとどまり、素子を待つことができるのだと思います。

そして、印象深いラストシーン。トグサの娘はプレゼントされた人形を抱きしめ、バトーは犬を抱き抱えて物語は幕を閉じます。「ゴースト」の器と「生命」の器。バトーの最後の表情は、二つの器のコントラストを見つめ、何を思ったのでしょうか?
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