亘

パフューム ある人殺しの物語の亘のレビュー・感想・評価

3.9
【アイデンティティと愛の欠乏・渇望】
パリの下町で生まれたジャン=バティストは天賦の嗅覚を持った男。孤児院で育ち、なめし皮職人として働いてた彼は、いつしかパリでも人気の調香師となる。しかしある女性との出会いから彼は女性の匂いを閉じ込めることに執念を注ぎ始める。

天賦の嗅覚を持ったジャン=バティスト・グルヌイユの生涯をたどる物語。彼は女性の匂いに惹かれ、その香りを閉じ込めるために数々の女性を殺害した。これだけならサイコパスだけれど、彼の生涯を知ることで彼自身が愛と自らのアイデンティティの欠乏に悩んでいたことに気づく。本作は愛と自己の欠乏・渇望を描いた壮大なおとぎ話なのだ。

[香りとの出会い パリ]
ジャン=バティストは、パリの下町で産み落とされた。しかし母親は処刑され彼は孤児院で育てられる。このころ彼は嗅覚を開花させる。その後皮なめし職人に安く売り飛ばされるも配達先の街中で香水店に興味を持つ。さらに、匂いに誘われて女性を追い、その匂いを嗅ぎたいがためにその女性を殺してしまうのだ。しかし女性が死ぬとその匂いは消えてしまう。この瞬間彼は「匂いを閉じ込める」ことに興味を持つのだ。

[匂いの閉じ込め パリ]
彼は、香水商バルディーニに弟子入りをする。バルディーニは落ちぶれていたが、ジャン=バティストの調香の才能に気づくと彼を金づるとして利用する。一方ジャン=バティストも頭角を現しバルディーニの店は繁盛するのだ。このバルディーニの店のくだりは、いかにもサクセスストーリーではあるけれども、彼は成功には興味がない。彼はバルディーニから香水の聖地グラースの話を聞くと1人で修行へ出かけるのだ。女性の匂いを閉じ込める方法を探すために。

パリのパートは彼の香りへの執着と才能開花の背景を示しているけど、
もう一つ重要なのは、母親・孤児院長・なめし皮職人の親方・バルディーニという彼を知る人々が皆彼と別れた直後に死ぬことだと思う。その結果ジャン=バティストはその後存在を知られていない存在となった。さらにこの4人は、彼を邪魔者・金づると考えて彼に愛を与えなかった。彼のアイデンティティ・愛の欠如のベースを作ったパートだろう。

[アイデンティティの欠如 山道]
彼はグラースへ向かう途中に洞窟にこもる。そこは無臭の空間だったが、同時に彼はここで自らに体臭がないことに気づく。臭いで全てを判断する彼にとってその人の体臭=個人であったのに、彼に体臭がない。つまり彼は自分のアイデンティティがないと感じる。彼が女性の匂いを閉じ込めることに執着するのも自らにないと感じているアイデンティティを追い求める行為なのだ。

[アイデンティティの渇望 グラース]
彼は香水の聖地グラースで香水の製法を学び女性の匂いを香水にする実験を行う。そして冷浸法に答えを見出す。娼婦を殺し、その体に動物性油脂を塗りつけ、匂いを吸った油をアルコールで溶かすのだ。それが成功だと示すための、香水で犬を呼ぶ描写は秀逸。そして彼は様々な女性を手にかけ香水を作り始めるのだ。その中でも貴族の娘ローラは、彼が匂いに惹かれた女性だった。彼は幾度となく彼女に手を出そうとし、ついに離れた町で彼女の匂いを閉じ込めることに成功する。そして彼はそれまで集めた13人の女性の匂いを調合し究極の香水を作り上げる。しかし警察に連続殺人で逮捕されてしまう。

[愛の欠如 グラース・パリ]
殺人の動機について厳しく拷問され、彼は処刑場で公開処刑を受けることになる。前夜の見せしめや処刑場登場の際には住民たちが彼への怒り・憎しみをぶつけるが、彼が究極の香水を振りまくと一変する。人々は愛に動かされその場で周囲の人々とセックスを始めるのだ。厳しく拷問したローラの父親までもが彼にひれ伏す。しかし愛を知らないジャン=バティストは、何が起こっているのか理解できない。そして彼は愛を知らないことを悟るのだ。彼は処刑場を抜け出すと、パリの下町で浮浪者の前でその香水を自らに振りまく。彼は愛を求めたのかもしれないが、浮浪者は愛の度が過ぎてしまい彼を食べてしまう。そしてついにジャン=バティストは忘れ去られた存在してるか分からない存在となったのだ。

ジャン=バティストにとって、匂い=アイデンティティ・存在であった。つまり彼が無臭であるというのは、彼自身にアイデンティティがなく存在自体が不確かということなのだ。パリにいた時点で彼を知る人々は皆死んでしまい彼の存在を知っている人もいない。だから彼の匂いを閉じ込めたいという渇望は、アイデンティティと存在を確認したいという彼自身の渇望だった。そして彼が手に入れたいと願った匂いこそ"若い女性の匂い=愛"であった。彼は愛を受けなかったからこそただただ愛を求め、愛を知らなかったからこそ殺すという手段しかとれなかった。そしてその匂いをつけることでアイデンティティを持とうとしただけだったのだ。

印象に残ったシーン:娼婦の香水で犬が寄ってくるシーン。処刑場で彼がたたずむシーン。

余談
原作は『香水 ある人殺しの物語』という小説です。この小説は1987年に世界幻想文学大賞受賞を受賞しました。この賞は、『ある日どこかで』や村上春樹の『海辺のカフカ』も受賞しています。
亘