亘

悪は存在せずの亘のレビュー・感想・評価

悪は存在せず(2020年製作の映画)
3.7
【"罪"に向き合う人々】
ヘシュマットは妻と娘と暮らす優しい男。幸せに暮らしているように見えるが、彼の仕事は特殊だった。朝3時に起きて職場へ向かいあるボタンを押す。彼は死刑執行人だったのだ。

死刑執行人を軸にイランの死刑制度を描いた4話からなるオムニバス作品。「死刑執行人」とは言っても専門職ではなく、イランでは兵役中の一般人でも配属によって執行人となりえる。任務であれ人を殺すことへの罪の意識と一方で命令に背けば不利益があるという事実。新たな角度から死刑制度を改めて考えさせられる。

[悪は存在せず]
テヘランに妻と娘と共に暮らすヘシュマットは優しい男。「家事は女性のもの」という意識の強い国にあって珍しく家事も率先して行う。配給の米を受け取り、妻を迎えに行く。料理も少しするし夜には妻の染髪も手伝う。いさかいもない幸せな家庭を築いているようだが、ある時彼は深夜3時に起きて仕事に向かう。彼がボタンを押すと踏板が外れて死刑が執行される。彼は死刑執行人だったのだ。

本作の中では唯一罪の意識が見られず、ある意味淡々としているストーリー。序盤はひたすらドライブシーンが映し出されてまるでアッバス・キアロスタミ監督の『10話』やジャファル・パナヒ監督の『人生タクシー』のよう。ただここの会話内容に何かポイントがあるというよりは、これは彼がどんな男かを示すためのものだろう。彼は良い家庭の優しい夫であり父である。だからこそ対照的な死刑執行シーンの衝撃が大きいのだ。

[あなたは出来ると彼女は言った]
兵役中の青年プーヤは初めての死刑執行を前に緊張していた。死刑執行の朝3時を前に気が気でなく、彼女からの電話を待っている。同部屋の男たちにからかわれたり取引を持ちかけられたりしながら彼は執行に向かうが、いざ被告人を連れて行くときに彼は刑務所脱走を始める。

本作の中で最も疾走感のあるストーリー。とはいえ序盤はひたすらワンシチュエーションの会話劇のようで、終盤から一気にテンポが上がりスパイ映画のようになる。それに最後の山道の背景に見える夜景は美しくて、2人の感じた達成感を表しているようだった。
任務に背けば兵役の延長や罰が待つにも拘らず、このような逃避行さえしなければ制度から逃れられないということなのだろう。特に冒頭の会話では「それが法律」という言葉が繰り返されている。「制度・構造から逃げるために法に背いて逃避に成功するが、根本は解決していない」という構図はケン・ローチ監督の『天使の分け前』にも似ていると思う。エンタメ性という点では本作で1番だろう。

[誕生日]
イランの山間の村の彼女の家に青年兵士ジャバドがやってくる。彼は彼女ナナの誕生日のために休暇を取ってきたのだ。しかし彼女の家では知人ケイワンの死刑執行がされたために葬式を行うという。その男は、ジャバドが3日間の休暇をもらうために死刑を執行した男だった。

本作の中でも主人公の感じる罪の意識が最も大きいストーリー。ナナの家族たちが敬慕するケイワンという男の素性は当初伏せられている。それでも会話にちょくちょく出るからジャバドも気になり詮索する。それがケイワンの写真が出てから打って変わり、ジャバドは罪の意識を抱き始める。特に誕生日のお祝いのシーンでは、何も知らない周囲とケイワンの死刑執行を知ってる2人の温度差に2人の居心地の悪さをひしひしと感じた。

[私にキスして]
山間部の辺鄙な村に住むバーラムとザマンはドイツ留学中で一時帰国する姪ダリヤを迎えに行く。医師でありながら電気もネットもない村で開業もせずに細々と暮らす2人にダリヤは疑問を持つが、ある日ついにバーラムが秘密を明かす。実はバーラムはダリヤの実の父であり、兵役中に死刑執行の指令に背いたために開業もせずダリヤの父の役目も避けたのだ。

本作の中では死刑制度とのつながりが薄いストーリー。「自らの死期が近づいたときに、家族に隠していた秘密を打ち明ける」というストーリーはスサンネ・ビア監督の『アフター・ウエディング』などほかの作品でもあるような展開。だけれども本作の場合は、兵役中には一般人であれ死刑執行しなければならないというイラン特有の事情もあって少し感情移入しにくいのと死刑制度にこじつけている感もある。一方で死刑執行から逃げた2人の話は、どこか2話目[あなたは出来ると彼女は言った]の2人のその後にも思えてきてイラン社会の変わらない姿を見せつけられているようにも感じた。

本作の邦題と英題は「悪は存在せず」だが、原題を直訳すると「悪魔は存在せず」となる。どちらも制度によって人を殺さざるを得ない人々について語っているが、前者は人々の内面にフォーカスし後者はそれを外から見ているように思う。制度であれ人を殺すことによる罪悪感を人々は感じており、死刑制度批判が高まるにつれおそらく当事者たちもより罪悪感に苦しむことになるのだろう。それでも彼らの人格が悪なのではないし、彼らは"悪魔"でもない。彼らに寄り添いながら死刑制度に疑問を投げかける作品だろう。

印象に残ったシーン:1話目でヘシュマットが深夜に支度して刑を執行するシーン。2話目で脱走後に来るまで夜道を走るシーン。
亘