TenKasS

鉄西区のTenKasSのレビュー・感想・評価

鉄西区(2003年製作の映画)
5.0
【『鉄西区』オールナイト日記】

第1部『工場』
文字通り工場で働く工員の男女の姿が映し出される。
工場の機械が動いているのは確かにカッコいい。アトラクションのようなショットもある。解体のシーンの金属粉が舞うシーンに至ってはもはや美しい。銅が流れ出てしまうシーンも凄い。普段ならその画面に感動して終わる。しかしなぜだろう、夜だからか…それとも長尺だからか、こんな過酷な環境で人間が働く必要があるという現実について学のない頭で愚かにも考え込んでしまう。油の浮きまくる風呂のシーンなんてヤバすぎる。普段ならおっさんがカメラの前で平気で裸でなんかやってる画面なんてやべえなというところで思考は止まるかもしれない(止まっていいのか?)だが、約20年前の現実として、この機械油の浮く風呂で身体を洗い流さなくてはならない人々がいたことに心を痛めたし今も実際そういう人たちは世界にいるのだ。結局これは自分がそうでなくて良かったという偽善なのか、本気で哀れんでいるのかももはや自分ではよくわからないのだが、それほど画面に力があったということなのだろうか…。でもきっと工員たちは風呂を楽しみにしていたと思う。
サックスを吹く男が出てくる。サックスを吹く男は「お前のサックスはクソだ」などと言われ、楽譜?を燃やされてしまう。なぜ燃やされたかといえば麻雀に参加するのを拒否したからだ。中盤から休憩所などでポーカーを始めとした賭けをしているシーンが沢山出てくるが、この楽譜?が燃やされてしまうシーンは即物的享楽のために文化資本が淘汰されるように映り非常に衝撃的だった。これを深読みと言うのか思い込みというのかはよくわからない。
あーあとおばさんのカラオケのシーンも良かったな。
第1部終盤となると、工員たちは工場の操業停止に伴い療養所へと移る。
実に微笑ましい養殖場での漁のシーンが出てくる。それ自体はとても笑えるシーンだ。しかし、その直後工員の1人が同じく養殖場で漁を行い、溺死したという事件が起こる。なんだろうこの残酷なコントラストは…。他の工員たちはヘラヘラしているし、カメラは死体を運んでいると思しき場面を淡々と映す。さらに言えば偶々隣に座っていたお客さんもなんだかクスクスと笑っていた。笑えるシーンだろうか…自分の感覚がおかしいのだろうか。工員の命が如何に軽く、代替可能なものか浮き彫りにされた気がして唖然としてしまった。
第1部は列車に始まり列車に終わる。今で言えばYouTubeにも死ぬほど転がっている車載動画の先駆けと言っていい類の映像だろう。操業を停止し、解体された工場を抜けた列車は街へと移動するように見えた。

第2部『街』
第1部とは打って変わって日常的でミクロな視点へと変わる。17歳の少年が、昔から好きだった子へ、バレンタインに花束を贈るとかチョコがどうのこうのとかそんな話である。友達同士じゃれあったり、ラブレターを読みあったり、通り掛かる自転車に跳ね飛ばされたり、何故かわけもなく罵り合ったり、少年が缶を売るとか売らないとか…あぁ鉄西区にも若い世代は当たり前だけれどいるんだ…となんとなく第一部の絶望的とも言える実情を目の当たりにした後だと、明るい希望すら感じる。冒頭に出てくるクジのくだりは、結局は夢をクジにすがるしかないアイロニーと取れるが、なんだかクスリと笑えてしまうシーンだし第1部より少々文化的側面が垣間見えるからか明るい。
とか思って見ていると、立ち退きが始まる。私財を売り、狭い代替住宅へ移ることを余儀なくされる。次第にインフラも無くなり、街は文字通り破壊され瓦礫の山がそこら中に溢れる。前半に出てきた少年少女たちはどこへ行ってしまったのか…そんな懸念が頭を支配した。一体どうしてこんな残酷な対比を繰り返すのか…。というよりはこんな残酷な対比に遭遇できるのかという方が正しいのかもしれない。ランタンを灯して電気みたいだな!と大喜びするシーンやこんなボロ屋のために騒動を起こして…と落胆する場面は特に印象的。
圧倒されたと同時に睡魔がピークを迎えた。
随分長く、充てがわれた代替住宅の部屋の間取りについて話すシーンがあったり前半の少年たちがちらほら出てきたりするが、終わりの見えない立ち退き騒動に時間が無限にも感じられた。

第3部『鉄路』
視点はさらにミクロになり、鉄路の側に住む親子に焦点が当たる。
鉄道が動くシーンは見ているだけで楽しい。親子に焦点が当たる部分も面白いが話題がシンドい。この親子は昔のツテで鉄道の側に住まわせてもらっているだけで鉄道員ではないようだ。親子は暖房の為の石炭を拾い盗んだりしてなんとか生きているようで、父親は鉄くず拾い、次男は食堂で働いているが、長男は父親の紹介で職を転々としたものの上手く社会に溶け込めていない様子だ。母は出て行ったという。ちなみに犬を飼っているが、犬が寝床の下から突然現れて焦る。
ある日、石炭を盗んだのがバレて父親が連行されてしまう。その時の長男の喪失感はもはや悲痛だ。「これが本当の家族なんだよ」とか言って泣きながら家族写真を見せてくる。父親のいない家は画面的にもなんだかスカスカな印象だ。結局父は帰ってくるわけだが、長男は飲食店で泣き崩れてしまう。もはや泣き崩れ過ぎて叱咤される始末。彼の計り知れない孤独や不甲斐なさが伝わってくるようだ。大の男が床に這いつくばっているのは笑える画面だけども見ているのが深夜を通り越して朝方だからか非常に感情的になってしまった。
その後、うなされる長男を父がなだめるシーンがある。「人生は辛い。生きるのは辛い。父さんの話を聞かせてやろう」という父親の姿は感動的な場面だが、父親は「聞いてるのか!?」とうなされる長男をひっぱたく。なんか…笑っていいんだか泣いていいんだかもうわからない。
一方で鉄道員たちは、妻を取り替えたら、妻が快楽を覚えて大変なことになったとかいう猥談を愉快に繰り広げたり、世間話をしたり、月がまん丸だと言ったり…その中で鉄道は時代と共に変わりゆく工業地帯を走り続ける。
映画は、終わりに9時間の長尺の中で恐らく初めて、団欒という風景を映す。親子は所を変え、一応の安定を得て一家で旧正月を祝う。その一方、列車は先の見えない闇の中を進み続け、終幕。圧巻。


9時間で1度として眠らなかった自分に驚いた。しかしこれ程の映画をみても 大した言葉で形容できない自分の馬鹿さにも驚いた。凄かった。圧倒された。としか言えず感慨にふけってばかりでどうにも不甲斐ない。学がない。だがどう考えてもこれは人生ベストの一本だ。
ワン・ビン監督のカメラは悲惨ともいえる出来事のあられもない姿を淡々と撮り続ける。時折、撮影側の存在を被写体側が認め話しかけてくるときもあるが、あくまでも音においても画面においても沈黙を貫き続けるその距離感とは何なのだろう。決して喋り返したりせず、撮れと言われてもカメラを振ったりせず一定の距離を保ち続ける。歩く人間を追う時の距離感もどこか近くも遠くもない独特の距離だった。
距離感とはすなわち妥協や謙遜などでは一切なく、本質を納めるために必要な状態なのだろう。ワン・ビン監督は恐らく、常に刀を抜ける状態にしているのだと思った。
加えて、今回の上映では字幕と同じ書体で、人物の名前や場所、年代といった事柄を示す補足のテロップが付いていた。大変わかりやすくはなっていたが、これがワン・ビン監督の意図したところなのかは正直分からなかった。

てなことを考えつつも、寒さと作品の素晴らしさに震えながら、偶々開いてた日高屋でやっすいラーメンを食べて帰った。
自らの貧困が、一層身にしみた。
TenKasS

TenKasS