ちきーた

フリークス(怪物團/神の子ら)のちきーたのレビュー・感想・評価

4.8
サーカスのサイドショウのスターである小人のハンスは
同じ小人で婚約者フリーダがいるにもかかわらず、空中ブランコの花形である美女クレオパトラに恋心を抱く。
しかしクレオパトラは小人などまともに相手にせず、金を借りたり適当にあしらうだけの扱い。
ある時、ふとしたことでハンスの継ぐ莫大な遺産を知ったクレオパトラは恋人ヘラクレスと共にハンスを結婚詐欺に嵌め、毒殺を計画する…。

1932年の作品。
もう86年も前の映画である。
しかし、時間は86年もの年月を経ているにも関わらず
内容はこの作品を超える同系のコンセプトを備えた映画を私は知らない。

しかし、この映画は全米で30年にわたって「上映禁止」になっていた。
1932年の上映当時には、NYタイムスで「これは人間に見せるべき映画ではない」と糾弾され、この映画がショックで流産しかけた妊婦がいた。、などという噂も流れたほど、衝撃的な内容だった。

アメリカ大恐慌のさなか、各地を巡業するサーカス団は「サイドショー」と呼ばれる「見世物小屋」も引き連れていた。
猛獣使いや曲芸や空中ブランコなどのメインの興行に対して「サイド(脇役)」としてのポジションのサイドショーは、サーカステントの外―「現実の世界」では当時は決して明るい太陽の下を歩けないような「フリークスの見世物小屋」だった。
フリークスとはミゼットと呼ばれる小人症、結合性双生児、四肢欠損や多毛症、小頭症など、今ならば「障害者」という枠に嵌められ、福祉の支援を受けて生活「しなければならない」人達のことである。
しかし、地方巡業をするサーカスという閉じられたコミュニティの中では(生活環境がどうこうではなく)彼らも大事なサーカスのメンバーとして扱われ、花形スターとなれば自分専用の小屋を持ち、自分の仕事にプライドを持ち、決して「障害者なんだから大人しくしてろ」などと言わせない。

本作は、その各サーカス団の「本物の」サイドショーの花形スターを共演させ、人間の尊厳を問う。
たまに「ホラー」にカテゴライズされている時があるが、れっきとしたヒューマンドラマだと思う。
ただ撮影現場は、そんなプライドの高い花形スター達ばかりで、障害を揶揄するような演出を拒んだり、エゴのぶつかり合いが激しく、スタッフや他のキャストが辟易する程だったらしい。
しかし、映画を撮り始める前にはサーカスで働いていたこともあるという監督のトッド・ブラウニングは、この映画の撮影の最中、喜々としてピンヘッド(小頭症)の少女たちと遊んだりして「勝手知ったる」という悠然とした態度だったという。

この映画の公開当時、本作が道徳的ではないとするPTAや諸団体、出演した何人かからも抗議を受けた、と
本作のオマージュとして書かれた著書「フリークス〜秘められた自己の神話とイメージ』(レスリー・フィードラー、青土社)に記されている。
次第に近代的文化的な生活を享受し始めた時代
多くの人々の見たくない現実がそこに写されていたのだろう。

日本でも、昭和の時代には縁日の神社の境内などに見世物小屋が存在した。テレビなどでも小人プロレスという興行があったが、やはりそれも「一部の『意識の高い識者』からのクレーム」により「見てはいけないもの」とされて消えていった。
障害を笑いの対象にしてはいけない、という至極もっともな理屈での自主規制であるといえばそうなのかも知れない。
しかし、その興行の収入で生活を成り立たせていた人達は存在したのだ。
その収入を失った後の生活を、『(気持ち悪い・見たくないから)興行するな、と言った識者』達は保証してくれたのだろうか?

障害者は目立ってはいけない
障害者は儲けてはいけない
障害者は「障害者らしく」しなければいけない

そんな暗黙のイメージを、健常者である人達は心の何処かに持っていないだろうか?
そんなイメージを持っているからこそ、小人プロレスも、見世物小屋(サイドショー)も、映画「フリークス」も、激しいまでの糾弾を受け
フリークスを「障害者らしい生活」という「福祉支援での生活」に押し込めてしまうのではないだろうか?

人間の多様性を認められない健常者は、障害者ではないと言えるのだろうか?

本作が大バッシングを受けた後、ブラウニングの企画は尽く却下され、僅か数本の映画の監督をするがヒットには恵まれなかった。
時代が変わったことを悟ったブラウニングは、第二次世界大戦が勃発した1939年に撮った映画を最後に引退し、誤った死亡記事が載るほどの隠遁生活を送り、二度と映画を作ることはなかったそうだ。