前方後円墳

六月の蛇の前方後円墳のレビュー・感想・評価

六月の蛇(2002年製作の映画)
4.0
作品全体には"生"と"死"の隠喩が散りばめられており、自脱=エクスタシーに向かって映像が流れていく。

題名にもある"蛇"とは水の神であり、禁断の果実に導く者でもある。雨降る六月に辰巳りん子(黒沢あすか)は蛇の役割を果たす飴口道郎(塚本晋也)によって禁断の果実を手にする。しかし、道郎だけでなく、りん子そのものも蛇の役割を持っている。りん子のカウンセリングが道郎の行動のきっかけとなる果実の役割を果たしている。そして、映像に時折映し出される蝸牛は現代の殻に閉じこもり、絶えず闇を抱えていることを表しているかのようであり、その殻を捨て去るための苦行を表現しているかのようだ。

この作品は青を基調としたモノクローム映像が印象的。青=エロスの象徴である。
盗み撮りをする道郎がりん子を脅迫し、淫らな行為を強要する。そして彼女はその過程で自らのエロスに目覚めていくような物語なのだが、この説明だけだど、ただのポルノ作品になってしまう。この作品で見せようとしていることは日常に抑え込まれた精神を偏愛をきっかけに肉体を通して解放する様で、そこにエロティシズム="生"が存在するということなのだ。そして、その解放の前提として"死"を感じているということが必要になる。それは"死"を意識したことによって"生"を確認することであり、ガンという死の啓示から、りん子と道郎の解放が始まるのだ。
また、随所に表現される肉体の痛みも"生"を感じる一つのきっかけとなる。りん子と道郎はガンの痛み、そして向かう死に対する精神的な痛み。りん子の夫である辰巳重彦(神足裕司)も道郎に暴行を受け、りん子に対して激しく嫉妬する痛みを伴っている。そしてその痛みが彼ら自身の再生の鍵となっている。それはまるで苦行のようなのだが、宗教のような禁欲的なものではない。それぞれの一方的な愛と嗜好が絡み合い、痛みを伴いながら一つの高みに行き着こうと混ざり合う様が残酷なまでに痛々しいのだ。
そして雨の中でりん子の自慰を道郎がカメラで撮影しながら視姦するシーンは圧巻だ。横で盗み見る道郎も含めて3人はそれぞれのオルガズムを迎えるのだが、そこからようやくラストシーンでの解放に向かって行く。