KnightsofOdessa

サタンタンゴのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

サタンタンゴ(1994年製作の映画)
5.0
No.917[時を駆け巡る悪魔のタンゴ] 100点(オールタイムベスト)

ベーラ・タルの伝説的な作品。本人曰く"世界のどこかで常に上映されている"とのことだが、それが長いことに対する自虐からなのか作品の価値を自覚しているからなのか、よく分からない。クラスナホルカイ・ラースローの同名小説を原作としている本作品は、六歩進んで六歩戻るタンゴのリズムで刻まれた無個性な村人たちと"魔術師"イリミアーシュによる聖書の壮大なパロディである。

①物語
イリミアーシュが帰ってくるまでの前六章と帰って来てからの後六章で構成されている。イリミアーシュ帰還の報を聞いた村人たちの右往左往を描いた一章四章六章、すべてを記録している飲んだくれの医師についての三章、自分の猫を虐待して死に至る少女についての五章、イリミアーシュと相棒ペトリナが戻ってくるきっかけとなる二章。村人全員が"やっべ帰ってくる"と口々に語って村人双方の或いは観客の不安を煽るが、壊れたレコードのように同じ時間を別視点で語り直すせいで中々帰ってこない。

すると突然円環から抜け出したかのように、少女の亡骸を囲む村人たちの前にはイリミアーシュがいて、彼らを荘園経営に扇動していく。演説を垂れる七章、村人たちが荘園に到着する八章、その裏で動くイリミアーシュを描く九章、難癖を付けて開始を延期し村人を離散させる十章、イリミアーシュの村人についての報告を警察がまとめる十一章、見捨てられた医師が最後を締めくくる十二章。堕落した寒村の住民が預言者エレミヤの名を冠した"魔術師"イリミアーシュの甘言に乗って荘園経営に乗り出すが、あれやこれやと言い訳を添えられて村人は全員が離散する。後半は打って変わって時間が色々と動き回って、出エジプト記のパロディをやる。イリミアーシュの到着が遅れて言い争いになるシーンや彼を追う長回しのシーンなどである。

これに7時間掛けるのだ。狂人かな?


②イリミアーシュ
イリミアーシュとは預言者エレミヤのことである。『エレミヤ書』は神に従わないイスラエル国民がバビロン(隣国)によって滅ぼされるという内容で、イリミアーシュを国家がスパイとして送り込み村人を離散させる内容と一致している。エレミヤはイスラエル人からフルボッコにされて死んだが、イリミアーシュは村人たちを簡単に騙すことが出来ているのは面白いところ。

まぁこれ以外に言うこともないが、この絶妙に胡散臭い顔は最高のキャスティングとしか言いようがない。


③医師と少女
この堕落した世界に唯一無二の存在感を放っているのが、常に孤独だったこの二人である。医師は第三章及び第十二章、少女は第五章の視点人物である。
まず医師であるが、彼は"全能の神"の役割を果たす。家の中に引きこもり、ブランデーを煽りながら窓から見える人々の暮らしを克明に記録する彼は、登場人物の中では唯一イリミアーシュに直接出会うことなく映画は終わる。それは"すべてを見ているが手助けはしない"という、まさしく神の立場である。村人はそんな彼を無下に扱い、彼に目を向けるのは廃屋で焚き火を囲む商売女しかいない。
やがてイリミアーシュに置いて行かれた彼は、町外れにある廃教会から鐘の音がする(これが第一章でフタキを起こし、物語を始める)のを見に行くと、狂人が"トルコ人がやって来る!"と叫んで銅板を叩き続けていたのだ。オスマン帝国時代にトルコに支配された経験のあるハンガリーはキリスト教の教会の多くをモスクに変えられている。神である医師にとって住む家及び信者を失う恐怖であると同時にキリスト教に守られた世界の終焉でもある。これによって家に逃げ帰った彼は窓を内側から塞ぐ。

少女は村人で唯一イリミアーシュの味方であるシャニ・ホルゴスという少年の妹であり、暴力的で粗野な彼に敵うことがない。それによって唯一コントロールできる自分の愛猫を殺鼠剤で殺害し、その後自殺してしまう。この猫虐待部分が本作品の評価を低くしている要因でもあるのだが、タルの描きたかったのは虐待そのものではなく暴力或いは支配体系の本質である。

第三章と第五章では常に孤独であったふたりが出会い、神=医師が少女を無下にすることで少女は自殺する。神に見捨てられた無垢なる存在が自死を選ぶ瞬間は胸を締め付けるものがある。


④その他の登場人物
特筆すべき人物がいないのがやはり村人が無個性であることの象徴である。しかし、その中でフタキという足の悪い男が後半突然暴れだす。シュミット、クラネル、ホリクス夫妻は荘園経営に賛同して離散することを無理なく受け入れたが、彼だけはイリミアーシュを信用せず、元々村で受け取るはずだった金だけ受け取ってイリミアーシュから離反するのだ。彼だけが第十章において巨大な円環から離脱しているのだ。
これは新約聖書にあるタラントのたとえ話にそっくりだ。ある主人が三人の下僕にお金を渡して旅に出て、帰ってくると二人はそれを商売に使って儲けを出し、それごと主人に返したが、一人は怖くなって土に埋めて何もせずそれを返した。人を信じる心についての寓話であり、当時のイスラエルで盲目的に律法を守っていた群集に対して鳴らされた警鐘である。フタキは何もせず金を返す三人目の下僕に該当しており、イリミアーシュを簡単に信じた他の村人と最後まで信じなかったフタキを対比している。

冒頭に出てきた牛のように目的もなくただ生きていただけの村人たちはイリミアーシュの言葉が嘘であっても縋るものができただけ幸せなんじゃないかと思うのだがね。


⑤映像その他
やはりタルはヤンチョーの弟子であるから長回しなんだけど、不思議と弛緩したシーンがあまりない。ヤンチョーも見習うべき。個人的にベストなのは少女が猫を抱えて廃屋まで歩いていくシーンと村人が踊り狂うシーンである。イリミアーシュが延々歩いていくのを後から追っていくシーンが多いのは彼をモーセとして出エジプト記をやってるからだろうか。


光あれとばかりに窓を開けて始まった本作品は医師がこの世に絶望して窓に板を打ち付ける場面で幕を閉じる。医師と世界を繋ぐ唯一の窓口を塞ぎ、自身が作り出した"光"を封じることは堕落した世界の終焉を示し、医師のナーレションが7時間前に読まれたものを繰り返すことで進みきった時間すら元に戻される。六歩進んで六歩下がったステップは再び一歩を踏み出して八の字を描いた円環の中に囚われ続け、悪魔は永遠にタンゴを踊り続ける。
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