きょんちゃみ

アバウト・タイム 愛おしい時間についてのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

5.0
この映画は、
素晴らしい映画である。

私がこんな直球で、シンプルな映画評を書くことになるとは思いもよらなかった。

この映画は、最高にオシャレで、楽しくて、かわいい映画でした。僕の大好きなイギリスの大好きな部分が全部詰まっているみたいな、上品な映画でした。

深夜の4時に、amazonプライムビデオで無料だったという理由だけで、何気なく再生した映画のラストシーンで、こんなに温かい気持ちになり、これほど優しい涙が目からこぼれることになるとは思わなかった。

私の疲れ切り、冷え切り、ひねくれた心は、この映画の優しいユーモアで満たされたのである。

何度でも言おう。

この映画は、
素晴らしい映画である。

私はずっとオールタイムベスト映画を決めかねていたのだが、ぜひこの映画にしようと思った。

私はこの映画に出てくる登場人物みんなが、大好きである。あのティムの叔父さんのキャラは特に最高である。何度だって見たいと思うタイムトラベル映画はもう二度とないかもしれない。このタイムトラベル映画は決して子供っぽいSFなんかではない。

この映画を見て、「過去へのタイムトラベルなんて科学的にありえないことが証明されているじゃないか。もし過去へ行くと、過去へ行った自分が、またその後でその過去へ行くことになり無限ループが生じるから。」とか言って、タイムトラベル映画の批評をするやつは、この映画のことがほんの1ミリたりとも分かっていない。そういう映画ではそもそもないのだ。

イル・モンドを流しながらのあの雨の結婚式のシーン。父のスピーチ。父との卓球。メアリーとの出会い。どれをとっても、すべてのシーンが宝石のようにキラキラと輝いている。いつでも見返したいし、その都度、愛おしく思えるだろう。

レイチェル・マクアダムスの笑顔。ビル・ナイの演技。イギリス式のユーモアたっぷりの会話(とくにティナとシャーロットと再会するところの会話なんか最高)。音楽の使い方もとても良い。


なにより素晴らしいのが、主人公ティムの人柄なのである。僕は彼のことがとても大好きになってしまった。シャーロットといい感じになったところで走って家に帰るところも好きだし、妹キットカットをジミーと別れさせるときにあんなに上品な、嫌味にならない説得方法はなかなかないと思う。

本当に良い映画でした。

こういう映画体験ができるから、映画を見ることを、いつまでたってもやめられません。日常の素晴らしさにもう一度感動させてくれて、本当にありがとう。
最高です。



【感じられる時間の長さが短くなる要因】
→そもそも、時間の長さが変わる要因はひとつではない。以下の複数の要因が組み合わさって最終的に体感時間が客観時間よりも短く感じられている。しかし、それらの要因を個別に見ていくことはできる。

[要因1:やるべきタスクが増える]
→タスクが増えるとタスクに割ける時間総量が短く感じられる。自分と関係のない会議、つまりやるべきタスクがない会議は妙に長く感じられる。タスクが減って自由が増えると時間が長くなったように感じられ、タスクが増えて自由が減ると時間が短くなったように感じられる。時間があるとは自由があるということでもあるのだ。「夏休みがあっという間に終わってしまった」という場合には夏休みにやりたいこと、つまりタスクが多かったのではないかと思われる。

[要因2:タスク達成にかかる時間が増える]
→最寄り駅まで行って帰ってくるというタスクしかないある日の午前中を考える。老化すると最寄り駅まで普段の倍の時間をかけないとたどりつけなくなる。なぜなら、歩行スピードが遅くなるから。そうなると、自由が減っていることになり、同じ時間でも短く感じられる。だから、退職して以降、老後にはたっぷり時間があると思っていたけれども実際にはそれほどの時間の長さには思えなかったということが生じる。

[要因3:感動できるイベントの数が減る]
→時間はよくわからないがイベントによってもたらされる変化はよくわかる。だから人は変化を根拠に時間が流れた、と考える。つまり、イベントがあればあるほどそのイベントによる変化を言えるようになり、長い時間が流れたと主張できるようになる。だから、人の感じる時間の長さは、注目されて切り出されるイベントの数の多さに比例する。イベントが多ければ多いほど変化は多くなり、それゆえ長い時間に感じられる。逆に、イベントが少なければ少ないほど変化も少なくなり、それゆえ短い時間に感じられる。たとえば、「楽しい映画は体感30分で終わってしまう」が、「つまらない会議は5時間続いた」気がする。楽しい映画は感動してたくさんのイベントが起きたとみなされるから8時間くらいの時間が経っている気がするのだが、時計を見ると実際には2時間しか経っていない。つまりこれは2時間で8時間分の体感時間が経過しているということになる。しかし「この映画は体感8時間だよ」とは言わない。では、「この映画は体感30分だよ」とはどういう意味なのだろうか。実は、「体感時間2時間が客観時間30分で経ってしまうように感じられること」を人は「体感30分」と言っているのである。実際にこの言葉が使われる場面を考えてみよう。「えーこの映画、2時間もある。退屈しないかしら。」と思案している人に対して、「大丈夫。この映画は体感30分だから。」と言っているとき、実際には何が言われているかというと、「あなたがこの映画を見ながら椅子に座って客観時間で2時間過ごすためには、客観時間で30分、椅子に座って普通の映画をみるときと同じだけの退屈を感じるだけでよい」と言われているのであり、つまりここで言う「30分」は、あくまでも客観時間なのである。そういうわけで、「楽しい時間はあっという間に過ぎる」のもなぜかというと、イベントが多くて主観的にはとてつもなく長い時間が経っているはずなのに、実際にたった時間は短いから、体感される時間が経過するスピードが速く感じられているからなのである。楽しい伝記映画など、色んなことが起きた映画をあとから考えると「これら全ての出来事が2時間で起きたとはとても思えない」と感じることもある。この場合は、伝記映画の中で起きたことを個別のイベントに整理しているからイベント数が多くなり、長い時間に感じられているのである。

[要因4:その時間は長くあるべきだという前提がある]
→楽しい時間は長くあって欲しいし、つらい時間は短くあって欲しい。たとえば、アインシュタインは、「Put your hand on a hot stove for a minute, and it seems like an hour. Sit with a pretty girl for an hour, and it seems like a minute. 熱いストーブの上に1分間手を置いてみると、1時間にも感じられるでしょう。かわいい女の子と1時間座っていると、1分ぐらいに感じるでしょう。」と言ったという。そうすると、同じ長さの時間でも、短くあるべきだという前提があると長く感じられて、長くあるべきだという前提があると短く感じられると言える。

[要因5:自分自身とその周りの変化が減る]
→人はイベントの数で時間の長さを測るのであった。二泊三日の旅行に行くと、そこでたくさんのイベントに立ち会う。だから、その旅行から帰る時には出発したのが3日前どころか10日前だったように感じる。それにたいして、40歳のときと30歳のときの間は、20歳のときと10歳のときの間に比べて、注目すべきイベントだと思えることが少ない。だから、「40歳のひとが30歳だったのは、まるで3年前のように感じるが、実際には10年前だった」ということが起きる。

【時間について不思議なこと】

【不思議⑴:楽しい映画はなぜ実際よりも短い気がするのか】
退屈な会議は時間がゆっくり流れているように感じるのに、素晴らしい映画を見ている時間は時間がものすごいスピードで流れているように感じる。例えば、『セデック・バレ』という全部で4時間の台湾映画を見ている時間は全部で数十分間くらいに感じたと言っていた批評家がいた。私も『マッドマックス 怒りのデスロード』という映画を見ている2時間は、30分くらいに感じるかもしれない。

【不思議⑵:楽しい1週間はなぜ実際よりも長い気がするのか】:たくさんの出来事があった怒涛の一週間のあとで、一週間前をあとから思い返すと、まるで一週間前が一ヶ月前のことであるかのように感じる。実際、『魔の山』の中でトマス・マンはこんなことを言っている。

「新しい土地で過ごすはずの幾日かは若々しい、つまり力強いどっしりとした歩みをふたたび取り戻す。---しかしこれも「慣れる」につれて日ごとに短くなってくるのである。4週間の最後の週は気味の悪いほどの速さと儚さでおわってしまうことだろう。もちろん、時間感覚の若返りはそういう旅行が終わってからも効き目が残っていて、日常の生活に戻ってからふたたび効き始める。家へ帰ったたばかりの日々は、転地の後ふたたび新鮮となり、どっしりと若々しく感得される。しかしこれは数日のあいだだけのことである。」(トマス・マン『魔の山』)

要するに、トマス・マンが4週間の旅行先に到着すると、最初のほうは時間がゆっくりと流れ、だんだんスピードが速くなっていき、旅行が終わり、今度は自分の家に戻るとまた最初の方は時間がゆっくりとなり、慣れるとまた時間が速くなるのだというのだ。これは、なぜなのか。

【不思議⑶:なぜ昨日のことのように思い出せるのか】
強い印象を受けている出来事について思い出すときには「まるで昨日のことのように」感じると言う。とくに、ある衝撃的な出来事から今に至るまで思い出す人の中で大した変化が起きていない時には、なおさら「昨日のことであるかのように感じる」と言うのではないだろうか。例えば、40歳の人が「僕は30歳の誕生日を昨日のことのように思い出せる」と言った例を私は聞いたことがあるが、40歳の人が10歳の誕生日を「昨日のことのように思い出せる」と言った例は聞いたことがない。これは、なぜなのか。40歳のそのひとと10歳のそのひととの間では思い出す主体のあいだにたくさんの変化が生じているからだろうか。例えば身長が大きくなっていたりとか。

【不思議⑴⑵⑶の解明の試み:主観時間を注意資源で説明する理論】

人間は、脳内の注意資源を使えば使うほど、人間は主観的に長い時間が立っていると考えてしまう。

ちなみに、
(使った注意資源の量)=(経ったとされる主観時間の長さ)
というこの理論はフリッカ錯視の研究でよくわかる。なお、使われる注意資源は具体的にはなにかという話については、ドーパミンかもしれないと言われている。

参考1:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021300003/?ST=m_labo

参考2:https://psych.or.jp/interest/ff-36/

参考3:https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00192.html

参考4:https://www.asahi.com/edua/article/14938051

参考5:https://gigazine.net/news/20190305-time-fly-when-having-fun/

【不思議⑴の解釈】
場面変化の多い映画ではすごいたくさんの注意資源を使うから主観的にはすごいたくさんの時間が立っていると考えられる。たとえば映画の中で泣いたり笑ったり、色んな劇的なことが起こったので、8時間くらい経っているような気がする。それなのに、映画を見終わって時計を見るとたった2時間しか経ってない。それで、「いつもの4倍のスピードで時間がたってしまった!」と感じるのだ。このとき、映画の上映時間は客観的には2時間だが、8時間に相当する注意資源を使ったので、8時間経っていないとおかしい、と脳は主張する。このおかしさを解消する中でうまれてくるのが「あっという間に時間が経ってしまった」という理解なのだ。

【不思議⑵の解釈】
注意資源を一週間で大量に使うと、ふつうは1ヶ月で使う注意資源の量とおなじだけ使ったはずなのに、まだ1週間しか経っていないという主観時間と客観時間とのあいだに差が生じる。それによって脳が1週間前を1ヶ月前だと主張してしまう。脳からしたら、いつも使っている注意資源の量からしたら1ヶ月前だとしたほうが整合的なので、誤解してしまうというわけ。

【不思議⑶の解釈】
衝撃的な出来事から今日までの変化がほとんどなくて、それゆえにその変化を知覚したり記憶したりするための注意資源消費量があたかも昨日から今日までの注意資源消費量とおなじくらい少ないときには、「昨日のことのように」という表現が適切に思えてしまう。

つまり、10年前のことであっても、昨日のことを思い出すのと想起に要する注意資源の消費量が変わらないならば、それは主観的には同じ距離しか離れていないものとして感じるということである。

例えば、100キロメートル離れている場所と10キロメートル離れている場所に徒歩でいくときには、100キロメートル離れている場所の方が遠いと感じるけれども、それはそこに到達するまでに消費したエネルギーが大きいからであって、もしもどっちにも飛行機でいけるとしたら、「搭乗券を買って飛行機にチェックインして空港に行って離陸してから着陸するまでの苦労の量」は、100キロメートルでも10キロメートルでも同じことなので、結局はどちらも同じくらい離れていると主観的には感じることになる。これは空間の例だが、これと同じことが時間についても言えるとしたら、想起に要する注意資源消費量が同じだからという理論で不思議⑶も説明ができることになる。

「歳を経るごとに1年間が経過するまでの体感スピードがどんどん速くなっていく」ということを「ジャネーの法則」というのだが、これは、一年経過前と一年経過後とを比較したときに多くの変化に気づく子供時代に対して、大人になると、一年経過前と一年経過後とを比較したときにほとんど変化に気付けなくなってしまうので、「一年前が昨日のことのように感じる大人に対して何年も前のことのように感じるのが子どもなのだ」という仕方で対比すれば、不思議⑶の応用例として、このジャネーの法則にも説明がついていることになる。

子ども時代は全てのものが新鮮であり、物事を局所的、つまりミクロに見てしまうのであるが、大人になると遠くから全体の滑らかな動きを大局的に、つまりマクロに見るということが可能になり、その結果時間の体感スピードが速くなっていくのである。

同じ日でも注意資源を使う日と使わない日がある。

注意資源を使わなくても自然な接続ができる映画というのもある。そういう映画は、注意資源を使って振り返ると長く感じるが、見ているその時は短く感じる。


【疲れと時間】
文章の比喩

ペットボトルに半分の水の比喩

経験を意味づけたり想起したりするのにかかるエネルギーに、主観時間の長さが比例する。

このエネルギーを大きくする要因としては、①そもそもイベントの数が多いとみなされることや、②イベントに意味づけがしにくいことや、③老化により想起がしにくくなること、などが挙げられる。


なぜ時計をただ見ているだけの時間は長く感じるのか。それは時計をただ見ているだけの時間は、意味づけることがほぼ不可能だし、それでも不快なものとして意味づけた場合は、それは不快な時間だからである。
きょんちゃみ

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