ニトー

ジョバンニの島のニトーのレビュー・感想・評価

ジョバンニの島(2014年製作の映画)
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画面が忙しない。

常に画面内の何か(人物であったり影であったり波であったりetc)が、そうでなければ画面そのものが動き音も絶えず響き続ける。パン、ズームイン、ズームアウト、SE、ボイス…。

ともかくこの映画には静と動の緩急というものがおよそ存在しない。ひたすら動の連続で、それだけを延々繋いでいる。

本作の作監である伊東伸高さんが同じく作監を務めている多くの湯浅政明監督の作品と比べてみればその差は一目瞭然なように、それはひとえに監督の采配によるものだろう。

だからというべきなのか、この映画にはアニメーションとして眼を見張るものがあるのかというと、ない。厳密には、存在しないというわけではないのだけど。
すでに書いたように作監は伊東伸高さんだし表情や運動のアニメーションそれ自体が悪いわけではない。ただ、それが快楽に繋がることがないのでせう。
それに加えて、それを捉えるカメラそのものである画面自体の揺れは、まるでパワポのアニメーションのように全部が全部一様で手抜きと謗られても反駁しづらいほどに一定の調子だ。

要するに退屈なのです、この映画は。


ただ、島を離れたあたりから、慣れによるものなのかその運動の無化とでも呼称したくなるような、画面に違和感を抱くことがなくなってくる。そうして主人公の声が仲代達也になったあたりで、ようやく静と動の緩急が立ち現れてくる。
それは本当に僅かな間で、何が始まるというわけでもなく、そのままただ少年時代に途切れた過去を再開しこの映画は幕を閉じる。そしてやはり画面の人間が動き続けたままエンドクレジットへと続く。

止まることのない一定の間隔・・・ひたすら振りっぱなしだから間隔ですらないのかもしれない。それは多分、日常の時間。「盆唄」の祭りという概念に私が見出したものの逆転とでも言うべきか。


日常にあるがゆえに意識することのない日常アニメ(日常系とかいうアレではなく、サザエさんとかクレしんとかアンパンマンとかの、日常として実生活に馴染んだアニメ)の延長として、この映画は在るように思えてならない。それは夕方のアニメで見慣れたキャラデザであったり動きだったり、というものから導出される印象でしかないのだけれども。

 列車はCGなのに銀河鉄道はちゃっかりCGじゃなかったり、波が打つアニメーションとか好きな場面はあったりしますけど、それらがこの退屈さを突き崩すことはない。ただの動きの、アナログな連綿の中で無化されてしまうから。


ひたすら退屈を描くこの映画は傑作などではない、と思う。問題提起も葛藤もないに等しい。
けれど、そのキッチュさや日本のアニメーションだからという理由だけで称揚されがちな、エキゾチシズムむんむんな異邦人の視線が渦巻く昨今の潮流の中にあって、このアニメ映画の持つ退屈さというのはかけがえのないものなのかもしれない。

 だからこそ、このアニメ映画持つの平凡さや画面の平板さは退屈でこそあれ、不要なものなどではない。
むしろ、この退屈さというのは慈しむべきものだ(私には、それはちょっと難しいけれど)。


だって、平和って退屈の最たるものだろうし。
ニトー

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