ニトー

映画 ギヴンのニトーのネタバレレビュー・内容・結末

映画 ギヴン(2020年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

原作もテレビシリーズの方も全くのノータッチ。だもんで、BLアニメであるということをまったく知らず音楽要素が少ない(全く足りてない、ということではなく)上にほとんどが隠喩として機能させられているのでちょっと面食らった。ていうかこれ前後篇の前編なのかよ。二人の物語としてはかなり綺麗にまとまったと思うんだけど次どうすんの。真冬と立夏か。テレビシリーズ観てないとこの二人にスポット当てた場合かなり音楽要素強めになりそうだけど、どうなんだろう。

しかし、割と個人的には好みではあった。いや湿度高すぎてちょっと笑ったりとか最後の告白を言葉として言わせるのはまあ、なんというか女性的というか「言わなきゃ伝わらない」という至極真っ当なディスコミュニケーションの回避を行っているあたりの社会性を感じさせるのだけれど、自分の趣味としては粋じゃない気がした。ていうか共感性羞恥に近い。

いや、雨月と秋彦の告白シーンがどうだったのか(そもそもあったのか)知らないんですけど、プレイバックになってたりしないのかとかね。ていうかアンタらの話がメインなのかよ、とまったくこのコンテンツを知らない身からすると割と衝撃だったのだが。春樹ってメインの中でも割とサイドよりじゃないですか明らかに(失礼)。そういうキャラは好きですけどね、幽遊白書の四人で一番好きなの桑原ですし、私。

そのラストはさておくとして、この映画というか「ギヴン」というのは、少なくともこの映画においては音楽についての映画ではない。秋彦が「音楽の楽しさ」を再び取り戻すという構成ではあり、それは要するにテニプリにおける天衣無縫的なアレなのだが、音楽が音楽そのものではなく「恋愛」というレイヤーと重畳させられていることによって「純粋に音楽が楽しい」という部分に「恋愛」という不純物が紛れ込んでいるように一見すると見える。

というか、実際に「音楽の楽しさ」や「才能との葛藤」という問題系は「恋愛」という強力なテーマによって回収されてしまっているのは否めない。たとえば春樹の「ほかのバンドメンバーに対して才能のない自分」という葛藤は、結局のところそれと並列される秋彦への恋慕と最終的に秋彦がその想いに応じるという形によって問題の本質を穿つことなく慰撫されてしまっている。

ある種の弁証法なのではないかと考えられなくもないかもしれないが、それをやろうとするとかなりダイナミックな飛躍が必要な気も。

音楽と恋愛が重ね合わされているというのは、言うまでもなく劇中のメタファーからも読み取れる。秋彦にとっての恋愛の問題系はその対象としての雨月とヴァイオリン(という過去)に象徴される。それに対置されるのが春樹とドラム(という現在)だ。
雨月=ヴァイオリン(過去):春樹=ベース(現在)の同質的な対置がなされているのだが、秋彦が扱う楽器をそれぞれの時系列と合わせると秋彦(過去)=ヴァイオリン・秋彦(現在)=ドラムなのだ。

ここに秋彦の恋愛における視点・立場の相違がみられる。雨月との過去の恋愛においては、彼と同じ楽器を扱うという営為がそのまま秋彦の同期・同化の願望として反映される。しかし、雨月との間に隔絶した才能の差を感じ取り、それが恋愛に亀裂を生じさせる。

女性にイラマチオさせてるっぽいし雨月に対しても春樹に対しても上位に組伏しているので秋彦はタチもとい攻めだと思うのだが……そこに伴う暴力性は一種のジャイアニズムでありそれが性的・恋愛的な秋彦の志向としてコードを読み取れる。すでに述べたように雨月に対しては彼のヴァイオリンの才能によってそのジャイアニズムが挫折させられ彼との恋が上手くいかなくなる。

攻めは本質的に受けの略取による合一を志向する型と捉えられるので能動的・加虐性を帯びるのだが、そこに「才能の差」と言うノイズを紛れ込ませることで雨月はそれを無効化…あるいは本人の意志の寄らぬ拒絶に繋がる。もちろん、それでも秋彦は無理やりやることもできるが、劇中の描写の限りではそれはない。そう考えるとそれこそが彼の音楽に対する真摯さとして受け止められる。だらしないけど。

いやまあ、そのフラストレーションの対象に春樹が搾取されてしまっているのだが、逆に言えばその真摯さ(ゆえに生じる葛藤)というクソデカ感情を向けられるのが春樹ということでもあり、それはとりもなおさず秋彦が雨月=過去から春樹=現在にその感情のベクトルを変え始めた証でもある。

途中が長くなってしまったが、言いたいのは秋彦の過去性の恋愛は雨月との同質化(ヴァイオリン同士)を望んだことで挫折したのだということ。磁石の極性みたいなもんです。

翻って現在の恋愛性としての春樹がベースなのに対し、秋彦はドラムである。二人が違う楽器を扱っていることに意味があり、そしてその蓋然性の高さを担保するのが「バンド」という形式なのだ。バンドは基本的にメンバーが異なる楽器を担当しなければならない。つまり、バンドメンバーとなった現在の秋彦はかつての独りよがりなヴァイオリンとヴァイオリンという合一のカタチではない相補性を獲得するに至り、それが彼の恋愛的志向にも変化を与えたのだろう。

加えて秋彦と春樹には(両者の間にも差はあれど)「才能を持たざる者」の共通点がある。春樹は秋彦をして「器用貧乏」と評するが、観客からはそれはむしろ(ほかのバンドのサポートに入ったり)春樹にこそ当てはまるように見えるし、実際に彼は秋彦にとっての当事者性を持っていないがゆえに見えるものあり、現に秋彦も同様の評価を春樹に対して行っていた。

それをメタファーとして示すのが花火のシーンだ。春樹のマンションに居候することになった秋彦が、彼と二人で春樹のマンションから花火を見るシーンのセリフで、秋彦は前の場所(雨月と暮らしていた半地下っぽい場所)では見えなかったと述べる。それは逆説的にいえば春樹と同じ視点に立つことで秋彦はそれまで見えていなかったものが見えるようになったということだ。ここにおいて秋彦は完全に雨月(過去)ではなく春樹(現在)と同じ立ち位置を獲得したことが示される。

このように相補的・異質的でありながら同質性を持つ二人(というか秋彦)の恋愛は、バンドという社会性を持った形態を経由し、演奏という営為(によって真冬の才覚に当てられることで、自分とは「似て《音楽》非なる《楽器》」ものを受け入れる)を通じて雨月という過去とけじめをつけて成就する。途中で秋彦がやらかしたりもしたけど。
しかしそれは過去との決別ではない。
細かい部分ではヴァイオリンに対してベースと言う弦楽器(でけぇ括りだけど)であることだが、これは過去性との係累である。劇中の直接的な作劇(秋彦がヴァイオリンを再開したこと)ことからも明白ではあるのだが、そういう部分からも彼が過去を清算・切り捨てたのではなくまさに受容したのだとわかる。

とはいえやはり「恋愛」と「音楽を楽しむ気持ち」を同じ位相で語るのは無茶だったと思う。実際、恋愛の方はともかく音楽の楽しさ・才能の問題はなあなあだし。
またこの映画では各キャラクターのモノローグによるポリフォニー(ホモフォニーではないのがミソ)で補完されているのだが、立夏だけそれがないしその上、出番もないので初見の自分にはキャラがつかめなかった。才能がある側ということはわかるし、それを言えば明らかに主人公である真冬もキーパーソンではありながら出番は少ないので、もしかしたら後編では二人にスポットが当たる構成になっているのかもしれない。

そのおかげか、高校生の二人は恋愛ドロドロ劇場を演じていた秋と春に比べて音楽に対してピュアなキャラとして描かれている。というか描かれていないからこそ、そう受け止められるというか。

そして後編でこそ才能を巡る話になる……のか?分からないけどそうしないとぶち上げた問題が棚上げになってるしなぁ。いや恋愛も面白かったけど。

以下覚書
・名前の法則性は「500日のサマー」っぽい
・秋彦は人好きのするクズ
・地味に音響凝ってる
ニトー

ニトー