ニトー

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語のニトーのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

私は熱心なまどマギファンではないし、当時もそこまで熱心にアニメを追っているわけではなかった(そうだったら公開当時に観てるし)。一応、テレビ版の本放送をリアルタイムで追ってはいたので当時の震災を含めたある種の時代性を帯びたことによる熱狂はある程度知ってはいたのだけれど、逆に言えばそれ以降の劇場版総集編や雨後の筍のように湧いて出た批評の数々にまったく触れていなかったし、ヒットした作品の常としての澎湃として生じた数々のパブにも触れていなかった。

この間ようやっと当時のユリイカの特集を買ったくらい(まだ読んでない)なので、そういう意味ではまどマギ弱者であることは否めない。

しかしそんな弱者から見ても新編は面白かった。まずもって久方ぶりの犬カレー空間の異様さやカット数の多さなど、劇場版アニメにしてもその情報量の多さはちょっと異常である。まどマギはそれこそアニメバブル前夜の時代ということもあって興行収入こそ今のアニメ全盛の状況と比べると少し見劣りする(それでも20億超えてるので十分)が、作風的にもやはり濃ゆいファンがいるのでウィキも充実している。で、それを頼りにするとやはり絵コンテで2300カットあるとかで、まあそれだけカメラ位置を調整しているということである。

ただキャラクターが喋るだけで3カメ使ったり、アクションつなぎだったりアニメでそれをやるとなるとその分だけ新しい場面の絵を描かなければならないので手間になるはずなのですが、まあシャフトの場合は純粋な動性のあるアニメーションというよりは静的な動きの少ないカットの連続で見せていくところがあるので、アニメーションとしてはミニマルな手法のそれを手数を増やして贅沢にやるというちょっと面白いことをやっている気がする。

といいつつも戦闘シーン(ザ・ワールド)や変身シーンの手の込みよう(保守本流の魔法少女変身シーンを脱臼させBGMもどこか不穏な装いがある)は、そういうミニマリズムで技巧を凝らしたものとは別の映像的快楽をもたらしてくれる。

要するに映像だけを取り出しても十分面白いということではある。後半のジャーゴンじみた用語の連続も、別にしっかりと理解する必要はなくて(その気があるなら映像はもっと抑えるだろう)、むしろそういったきっかりとしたSF的な説明の粗さを煙に巻くところがある。

何せ掲げられるお題目が「愛」である。いやもちろんSFの中で愛はヒューマニズムの観点からなどもよく取り上げられるものではあるけれど、それを宇宙の法則を書き換えるほどのエネルギーの源泉として扱うとなればもはやSF的なセンスオブワンダーで語るにはあまりにも大文字の「愛」過ぎるので、要するに「こまけぇこたぁいんだよ。愛だよ愛、最後に愛は勝つ」という本作のというかまどマギのテーマの全面展開のための方便なのだ。

マギレコの方はやってないしアニメも見てないのでアレが「まどマギ」とどういう位置づけなのか分からないんですけど、少なくとも2024年の新作が発表されるまでは本作が(とりあえずの)正当続編という扱いではあったと考えると、本作は実質的に「まどマギ」におけるメリーバッドエンドであると言えるのだがQBザマァエンドではあったので(しかしそのラストカットのQBの顔こそが「バッド」を予期させるのだが)個人的にはグッドエンドであった。
という冗談はさておき、テレビシリーズはいわばまどかの救済の話だったと思うのだけれど、この新編はほむらの(自力)救済の話でござんしょ。

どちらも実質的な主人公はほむらであるということにそこまで異論は生じないと思う。しかし、ここで個人的な所感を述べさせてもらえば、そういった一般論を差し引いたとしても「まどか」という存在が奇妙に映る。テレビシリーズの記憶が曖昧だもんで単に忘れているということもあるかもしれないんですが、「まどか」に対する印象がほとんどないのです、私。

いや「まどマギ」と言われて真っ先に思い浮かぶ顔はまどかだし、決して空気とかそういうことがいいたいわけではない。むしろ、それよりももっと大きな枠組みとしての「空虚」という言葉で表すべきキャラクターではあるかもしれない。

まどマギにおけるまどかは、その存在がほとんど舞台装置的といっていい(ワルプルギスの夜が舞台装置の魔女と呼ばれているのを初めて知ったんですけど、これも犬カレー背景や劇中の「幕間」の演出を観ると意味深)。おもえばテレビシリーズにおいても、物語を牽引するのはまどかではなくその周囲の魔法少女たちだったし、彼女らが魔法少女になるための願い、願うに至ったバックグラウンドもしっかりと描かれている。

そう考えると、ほかの魔法少女たちには家庭や家族といったものが(私のおぼろげな記憶の範囲では)描かれないのに対し(設定的にはさやかやほむらの家族は存在していてもおかしくないはずなので)、まどかには極めて通俗的な「充足した」家族が描かれることも奇妙に映る。多くのアニメにおける少年少女に家族が描かれないのは、むしろそれが彼女たちのキャラにとってノイズになりえるからで、キャラとして強ければむしろ不必要ですらあり(あるいは事前に設定レベルから排除されている)、なればこそまどか以外の魔法少女たちにはそのような存在を必要としない強度が与えられていると逆説的にいえる。

しかしまどかには家族が描かれる。
それはまどかの「キャラの弱さ」を虚飾すると同時に書割的に描かれる「幸福な家族像」によって、より一層まどかの空虚さを補填しているように見える。
創作物においてすでに満たされているキャラクターほど退屈なものはないだろう。何せ満たされているのであれば「何かをなそう」とする行動原理が生じえないのだから。せいぜいが「現状維持」だ。もっとも、その「現状維持」がある意味では本作の物事の重要な願望ではあるし、それを突き詰めると「ループ」という無限性に突入するので、そういう意味ではまどかのそれはやはり重要な要素ではあったのだろう。

ともあれ、テレビシリーズにおけるまどかは魔法少女に憧れこそすれ、そのための願いを持つことがなくモチベーションそのものを終盤まで欠いていた。

しかし、空虚であるということは、ハリウッドの往年のスターがそうであったように大衆の願望の眼差しの器として機能する。空虚で空っぽであるがゆえにあらゆるものを受け止める器になりえるのだ。

やがて「まどか」という存在は「ほむら」の願望の器もとい対象そのものになり、ループによって幾度ももほむらの願望を眼差された結果、「まどか」は空虚なキャラクターであるがゆえの超越性を獲得するにいたる。

他の魔法少女たちが「キャラ」として強かったのは、願いを含めそのキャラクター造形が人間的で魅力的であったからだ。翻って、キャラとして弱いまどかが魔法少女になるために最終的に掴み取った願いというのは「すべての魔法少女を救いたい(だったはず。多分)」という、人「並み」の願いではないものだった。

それは究極の利他であり、ほかの魔法少女たちが(見かけはともかく)本質的に自己救済的を目的とした「願い」であったのに対して、それは願いというよりもほとんど「祈り」に近いものだった。劇中でもマミがさやかに「他人のために願いを使うのはやばい」みたいなことを言っていたのは、さやかの末路だけではなく、むしろまどかの末路を指していたのではないかと思える。

これは別にそこまで突飛な話ではなくて、なぜならまどかは最終的に円環の理と呼ばれるシステムそのもの(通称アルティメットまどか)になるわけで、まどかという存在が最初からそういうシステム=まどマギ世界を成り立たせる舞台装置であったと考えるのはむしろ自然なことだ。

だから空虚な存在としてのまどかは最終的に(魔法少女≒魔女)を救済するシステムそものとして完成する。

アルティメットまどかに女神あるいは聖母のイメージが付与されているのも、それらの概念が機能としての救済(的存在を内包・産出する)を有しているからだ。

「まどマギ」においてキャラの弱いまどかがそれにもかかわらず「まどマギ」の顔として強烈に印象付けられるのも、その世界のシステムそのものを象る枠であるからだろう。まどかがいなくてもあの世界は存在するが、彼女がいなければほかの魔法少女は輝けない。
近年の例で、より分かりやすくかみ砕かれた例で言えば「グリッドマンユニバース」におけるグリッドマンが割と近いものである気がするが、あそこまで単純明快な感じではない。

テレビの続編としての本作では、書き換えられ完成したシステムとしてのアルティメットまどかから「キャラ」としての「まどか」をほむらが奪掠する話であり、端的に言ってテレビシリーズの結末をひっくり返すとは言わないまでも、中指おったてた結末ではあるはずだ。
それが悪徳として……というと語弊があるので自己中心的な行為として受け止められるのは、ほむらにとっての夢の街を、そのまま世界そのもの、宇宙そのものへと敷衍してしまったから、すなわち自分の掌握可能な箱庭化するということにほかならないからだ。それは徹頭徹尾「利他」のためのに世界を書き換えたまどかとは違い、まどかと一緒にいたいという「利己」のために世界を書き換えたからと言える。

しかし、それは紛れもない、ほむらの人間性の発露でもあり、本質的に魔法少女の「願い」と何ら変わるところはない。

と、ここまで書いてきてこれ以上ディグるのは面倒というか疲れたのでここで切り上げる。

正直キャラクターに対する考察とかは散々されてるので今更私が個別のキャラをどうこういうことはない(杏子とさやかが一番グッとくるということくらいを言及するにとどめる)。だからこそこういうちょっとしたメタでしか語れないんだけれど、まあ書いたような「利己主義」としての「願い」(ほむら)と「利他主義」としての「祈り」(まどか)をどう揚棄するのかは気になるところである。というところでひとまず次作を待つ。

一つ一つのディティールを取り上げてやいのやいの語るのも一興ではあるんですが、そういうのはまあ濃度の濃いまどマギオタに譲るべきでせう。

しいて言えば魔女同士の対決は熱かったですな。魔女として葬られたさやかとなぎさが、なればこそほむらを相克しえるという巨大魔女の衝突の絵面。まあ、概念的スケールの差で最終的にいなされてしまうんだけど、作り変えられた世界でも明確に悪魔としてのほむらを意識できるという可能性はまだ残っているような描き方なのでセーフ(何が)。そのあとのまどかも含めてエネルギー回収システムとしての「魔女」がまだ機能してしまう可能性を保持しているということではあるんですが。

ただまあ、しいて言えば今の目線で考えるとQBの声優はゴリゴリのマッチョを想起させる男性声優の方が、今の目線で観るとよかったんじゃないかと思ったりもするんですよねぇ。そんなチープなエクスキューズはいらんわい、という声も無きにしも非ずではあろうけれど、しかし今やフェミニズム要素なしで魔女(Include魔法少女)を語るのは片手落ち(あんまこの言葉はどうかと思うが)でございますし、ボロ雑巾QBの絵面もマッチョ男性声優だったらよりザマァ感が増したのではないかと思う。

QBといえば次回作ではQBが感情を獲得して対立からの融和路線とか考えたんですけど、まあないよな。
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