ニトー

劇場版 響け!ユーフォニアム 届けたいメロディのニトーのレビュー・感想・評価

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テレビ版2期の総集編ということで、例の如くテレビシリーズは未見。
1期の総集編は構成がめちゃ上手くてびっくりしたのだけれどこっちもなかなかどうして上手い具合にハマっている。

というかテレビシリーズのシリーズ構成が巧みなのだろう。

しかしである。これはテレビシリーズの総集編ゆえなのか元からそうなのか正直なことろ判断がつかないのだけれど、少なくともこの劇場総集編2作目(と1作目もそうなんだけど)だけで考えるとそこはかとなく齟齬が見えてくる。

というのも、これは合奏とは名ばかりの強烈な(そして明確な才能を持った)メインキャラクターのエゴイズムによって物語を牽引しているからだ。

前作では高坂が、本作では田中が。そしてその両者の、ある種のメディウムとしての久美子が主人公として配置されている。

合奏シーンにおいてネームドだけでなく名前もないキャラクターの一人一人が躍動的に描かれれば描かれるほどに田中の物語に収斂されていく。

合奏とは、というか合奏に限らず集団的に何かを行うものはそれがスポーツであれなんであれ「個の集合」としてのチームとして1+1を2よりも大きくするためのものでなければならず、そうであるがゆえにそれを構成する個々人を描き込むことが必要になってくる。

いうまでもなくそれは組織規模が大きくなればなるほど困難になるわけで、ましてメディアによってもその描写の多寡は変わってくるだろう。テレビシリーズといえど合奏を行うキャラクター全員にスポットを当てるというのは難しい。そのために久美子というキャラクターをその中心において、あるいはモノローグによって分かりやすく物語を咀嚼しやすくしている。それは至極まっとうな判断だろう。

しかし、前作でも思ったがその牽引役の個性が強ければ強いほどに相対的にほかの名無しやネームドでさえも後景化してしまう。加藤の恋慕のスタートダッシュからの敗北のスピード感たるや、高坂と久美子の完全なる当て馬である(いうまでもなく塚本も)。

だから何だ、というわけではないのだけれど、こと合奏という題材を描く本作において特定のキャラクターが突出しすぎてしまうことはかえってモチーフのレベルで解離を起こしてしまうのではないかと思ったのだ。

ちなみに、その点で「ブルーロック」は本作と非常に似通っているだけでなく、そのエゴイズムというテーマを全面展開しつつ、実はあまり死にキャラがいない上にそのテーマ上キャラが食われても問題ないという荒業をやっているのだが、これは男性向けと女性向けの差なのかもしれない。まあそれでも特定のキャラが人気出てそこにスポットが当てられるというのはコンテンツとしては無べなるが。

もう一つ、劇場総集編2作に共通する「父性の渇望」が妙に気になった。高坂の滝に向けるそれと田中の実父に向けるそれは(高坂はLOVEと言っているが)父性に対する渇望として見れる。その父性からの承認を支えるのは久美子とのウーマンスである、というのもなんだか気になる。

このシリーズでは基本的に異性愛は予めくじかれている、というのは先の加藤のスピード失恋からも明らかである。一方で女性の同性愛(ていうか百合なんだけど)的な仕草は多分にみられるし、セリフでも明らかに狙ったものが散見される。それが露骨な高坂と久美子だけでなく本作において田中と久美子のやりとりにもそれが見られる(ラスト付近の二人の会話のきっかけとなる田中の茶化しのセリフなど)。

もちろん、百合であるがゆえに一線を越えることはないしそれ自体がテーマでもないのだけれど、高坂のLOVE発言の浮薄さに比べて演出レベルでの百合の濃度は明らかに気合の入りようが違う。で、その極めつけが「リズと青い鳥」に繋がっていくわけだけれど、それはさておきこの周到な(というか執拗な)異性愛的価値観の排除はちょっと面白い。

思うに、これは極めてヘテロ優位な社会的価値観を巧みに利用したホモソーシャルの反転利用なのではないか。

男女の友情は成り立つか、という問いは常々なされることだが、その問いが立つという時点で同性愛ではなく異性愛優位の価値観が定着しているということである。

そうであるとすれば、男女混合が展開されるとそこには恋愛のにおいひいては性的なものが前面に出てきてしまう。それは「ユーフォニアム」には、合奏という集団作業にノイズをもたらす。サークルクラッシャーという概念はつまるところそれであるのだから。

だからこそ、本シリーズでは女性同士によるケアによってそれを可能にする。先ほど「ブルーロック」の例を出したが、あれは極めて競争原理の強い作風で、そこには男性同士による強烈なホモソーシャルが立ち現れる。男性同士の闘争だ。

しかし、同じ「ホモ=同性愛)」であっても、それを女性による相互ケアの原理に挿げ替えることでホモソーシャルを反転利用する。言うまでもなくそこには選抜といった競争原理があるわけだが、本作においてはその競争原理自体がほとんど無化されている。まあ、劇場版1作目も含め、それはそれで「才能」というまた別の恐ろしく困難なテーマが立ち現れてくるわけだけれど。「ギヴン」もそうだが、恋愛よりも才能というテーゼに挑む方が難しいようだ。


前作に引き続いて最初の問いかけやセリフの意味を反転させる構成は巧みだし演出や作画も良い。
さすが京アニといったところ。


めっちゃどうでもいいけど卒部会で3年生が出し物するんすか?送り出す側がやるもんじゃねえんですかね、それ。
ニトー

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