ニトー

マン・オン・ザ・ムーンのニトーのレビュー・感想・評価

マン・オン・ザ・ムーン(1999年製作の映画)
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この映画、すげぇ怖いんだけど。
話としてはオオカミ少年のそれと同じ。あるいは、藤子・F・不二雄とかミステリーゾーンとかそういう系譜に連なるのだろう。

それにしてもこの時期のジム・キャリーの作品選びというか、彼に向ける大衆の視線(を利用した作り手の作為)というものがどういうものだったのか、「トゥルーマン・ショー」と合わせて考えると中々えげつない気がする。ジム・キャリーはたしか双極だったと思うのだが、さもありなんというか。
ほとんど脅迫症的に現実を茶化そうとする営みは、本当に癌だと発覚した後ですら往年の女優を死から生還させるというショーを披露してみせたときに極を迎える。
所々でアンディの死に対する恐怖の吐露(スピった怪しい施術も含め)も、それまでのすべてが彼による作為であることを見せつけられた観客にすら本心なのかどうかと猜疑心を喚起させる。

この映画がエンドロールから始まり、そのエンドロールすらも茶化すことから始まり、その映像がかけられながら彼の死によって完結(死に顔のトランジッションがまたゾッとする)する。まるで虚構のアンディが現実のアンディ(の死)を茶化すように。

幼児期のアンディが壁に向かって芸の練習をしていたのも、「トゥルーマン・ショー」で最後に壁の向こう側へと越境したトゥルーマン(ジム・キャリー)のことを思うと、そこに現実と虚構の彼我のボーダーを見出したくなる。彼は結局、虚構の中でしか生きられない人間だったのだと。父親に言われて人の目の前で芸の練習をするにしても、妹を自分の部屋に連れ込んで見せるという「壁」の中でこそ行われるわけで。

ある意味でこれはコメディアン(アンディ的にはそう呼ばれるのは好ましくないのだろうが)の「現実(の出来事)を茶化す」という営為…レーゾンデートルのまさに体現なのではないかとすら思えてくる。

「サウスパーク」と違ってアンディ・カウフマンは現実の真っただ中にいながら現実をパロディ化するという空恐ろしい無間地獄のような戦いを挑んでいたのか。
「トゥルーマン・ショー」を含めメタフィクションの構造を持った本作だけれど、散々書いてきたようにこれはアンディ=ジムの切なくなるほどの必死さ、家族にすら疑われるほど現実に抗うその姿に胸を打つ映画なのでは。
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