カラン

愛の嵐のカランのレビュー・感想・評価

愛の嵐(1973年製作の映画)
4.0
1957年、ウィーン。マックス(ダーク・ボガード)はホテルで夜番のフロント兼ポーターをしている。彼は終戦後、秘密のネットワークを作り、素性を隠して職を持ち、社会に潜む、オーストリアの元SSメンバーの1員だった。そのホテルに『魔笛』の演奏にアメリカ人のオペラ指揮者が宿泊にやってくるが、その妻は、戦中にマックスらが収監したユダヤ人たちの中にいた少女、ルチア(シャーロット・ランプリング)であった。


元SSとユダヤ人サバイバーの死に至る性愛や、斬首の暴力を文学と関連づけるデカダンス、そしてさぞや映画にお詳しい方々を魅了しただろうSSとユダヤのホモセクシュアリティ、そういった過激なモーチフをちりばめた作品。




☆良いところ① ~ドーラン 
 
今時の映画ではあまりお目にかからない芸風だがベルイマンやヴィスコンティでは、主体を一発でゴースト化する道具であった。特殊メイクと特殊撮影で色々やろうとするばかりの昨今では逆に新しい。マッチョな男色バレエダンサー、好色だが「臭い」金髪老夫人、餓死しかけたマックス。何より、切り落とされた頭髪に制帽を被ってストライプのだぼだぼスラックスで上半身はサスペンダー&裸のルチアは、さらした乳首にまで白粉を塗っている。このようなドーランこそが、この映画を単にスキャンダラスなだけの映画から区別しているのかもしれない。
 
 
☆良いところ② ~見世物 
 
上記したような恰好でルチアはマレーネ・ディートリッヒのドイツ語の歌をふらふらしながら歌う。ここは衣装やメイクはかなり優れているのだが、アクションは乏しくて、『サロメ』的生首を出してみても、『地獄に堕ちた勇者ども』(1969)のヘルムート・バーガーのデカダン・ステージにはだいぶ及ばない。

もう1つのスペクタクルは、男色のダンサー、バート(アメディオ・アモディオ)によるもので、こちらもメイクと衣装がかなりいい。股間を強調したベージュのブリーフは立派な尻をむき出しにしている。彼の筋肉質でぶりぶりのでかい尻は男色の欲望を相当にそそるものであっただろう。しかしダンサーとしては肉付きが良すぎるのか、跳躍は高さがでない。動き回りながら連続的に跳躍して高さ方向を稼ぐのは大変なのは分かるが、映画だからね、なんか鈍重なダンスだなと感じさせていてはいけないだろう。 
 
 
☆至高のログライン?
 
Blu-rayで視聴したのだが、その解説ブックレットはあまり映画を分かっていない、つまり映画を分かっている評論家さんなのか、ものものしい言葉で本作が至高の芸術であるという趣旨のことが書かれている。しかし撮影はどうなのだろうか?Y軸上を下方向にパンしてX軸上の人物を捉えるショットが2回あったと思うが、ピンボケしているだけ?なんの効果があるのか分からないという調子なのである。あるいは編集も、前半はマックスとルチアのクロスカットに強制収容所のフラッシュバックを挟み、2人が接近していくようにしているのはいいとしても、後半のマックスの部屋に籠ってハンガーストライキ状態の2人と外の元SS仲間のクロスカットなんて、クロスカットなのに迫るものが全くない。これは編集の問題ではないのかもしれない。そもそもフッテージには映すべきものが何もなかったのかもしれない。この映画は映画空間が出来上がっていないのである。まるでログラインだけで出来上がった映画とでもいうかのようだ。
 
 
☆貧弱な空間性①
 
誰もドイツ語を話さない。主演2人を考えれば当然だが英語なのである。かつてヴィスコンティは英語圏が舞台でないのに英語を話す映画を撮ったが、徹底した空間性で失地回復していた。ベルトルッチは満州が舞台でなぜか英語を話す『ラストエンペラー』を撮った。何語による何処での撮影であろうと映画の本質は変わらないという概念的把握の鑑賞者でもなければ、相当に変な設定であるし、坂本龍一まで英語なのは非ヨーロッパの固有性をおよそ理解する気がなく、ベルトルッチの頭の中での映画というだけであると思わざるをえない。しかし、そこはやはり紫禁城等のロケを徹底しているので、ふんだんなロケ空間の撮影がもたらす固有性をドーピングすることで、強固な映画空間を回復していたわけだ。

他方で、同じイタリア映画であるが、本作の場合はモーツァルトハウスや『魔笛』のステージやカール・マルクス・ホーフ(ウィーンの集合住宅)等を披露するものの、映っているものの大半が屋内であり、おそらくイタリアの撮影所であるチネチッタでのセット撮影が大半であるのかもと考えざるをえない。こうして本作はイタリアの映画であり、役者はイギリス人であり、だからセリフは英語なのであり、それにも関わらずオーストリアのナチスの残党とユダヤ人との性愛という独特の関係を描く。ほぼほぼ屋内の撮影に委ねることで、固有のリアリティを持つべき映画空間が消失し、どこだか分からない、架空のお話になってしまうのである。
 
 
☆貧弱な空間性② 
 
こうした貧相な映画空間であるために、後半のマックスのアパートへの「たてこもり」がまるでコミュ障の「ひきこもり」になってしまうのである。マックスとルチアのたてこもりは、最初から飢え死に覚悟のものだったとするべきではない。元SSとユダヤ人サバイバーの2人は2人だけで生きたかったのである。しかし、そんな2人がこの社会のどこかで一緒に暮らして、彼らなりの幸せを築くことなど、許されるはずがないのである。この2人には行き場がない、そう考えなければならないはずだ。そうした対立するもののせめぎ合いは、主演2人のアドリブの効果で楽しむべき付随的なものではなく、物語の必然的展開なのである。

しかし、この映画には固有の空間性がなく、2人の道行を妨げるのは、アパートの外の元SS仲間たちだけなのである。飢えで発狂するほどに2人をアパートに押し込める圧力がまったく効いていないのだ。考えてみるとこのアパートがカール・マルクス・ホーフという左派の根城であるならば元SSというだけでも監視の被注察感が生じようものだが、普通に夜ばれないように逃亡すればよかったのにとしか思えないのである。この2人には世界のどこにも行き場などなく、夜逃げなど不可能であるという絶望的な行き詰まりを抱かせる映画空間を捉えたフッテージがないなかで、編集がクロスカットなどしてみたところで、空しい。どこかに逃げればいいんじゃないか?と白けた感想しか抱けない。しかし何度も言うが、逃げられない、本当は。逃げられないのである、脚本上は。映されている映画空間には何もなく、逃げられるように思えるのだが。

人物を包む空間が死んでいるからである。だからせめぎ合う緊張はなく、このアパートには外部がないのだからそこから出たら死ぬことになるわけでもない、そんなお空に浮いたアパートの一室になるのだ。しかし、型通りに悲劇は起こる。撮影は出来ていないが、台本だけはあったというわけだ。ダーク・ボガードがかなり良かっただけに、実に残念である。



 
映画を観て、映っていないのに勝手に分かることを概念的把握と呼ぼう。Blu-rayの評論家さんの説明は、それが提灯記事ではないならば、概念的に映画を観た感想なんだろうなと思う。これはオーストリアの元SSとユダヤ人の性愛と悲哀の映画であるって、分かってしまうんだろうな。映画を映画として観ていないからなんだろうな。まだまだ蓮實重彦が喋り続けないといけない業界なのかもしない。真面目な話、画面は1つで、目は2つだからなのじゃないかと思う。映画を観たままに感動するって難しい。観たままに感動しないのも難しい。映画を分から-ないのは、もっと難しい。映画を観て、分からないままでいたい。(謎) 今度、エルンスト・マッハみたいに片目で観てみようか。(爆)
カラン

カラン