ベイビー

フォックスキャッチャーのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

フォックスキャッチャー(2014年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

この映画は実話に基づいて作られたそうですが、僕はその事実を知りませんでした。きっと当時もニュースなどで「大富豪が元金メダリストを射殺した」と聞かされたところで、その金持ちの酔狂としか思えず、それ以上は深く考えなかったでしょう。

実際、この作品のラストだけを捉えれば、我がままな金持ちの奇行としか解釈できません。しかし全編を通して作品を鑑賞すれば、静かに流れる物語のなかで、狂気とも言える犯罪者の心理が、マークを通して丁寧に描かれています。

マークはレスリングの実績があるにも関わらず、ずっと兄デイヴの影に隠れて過ごす日々でした。そんな中で自分を見つけてくれたのは、大富豪のデュポンです。デュポンは金メダリストであるマークに「君みたいな名誉のある者に敬意を払わないのは社会の問題だ」と言って、フォックスキャッチャーに呼び寄せます。

デュポンとマークは二人三脚でフォックスキャッチャーを大きくし、「フォックス」を来年のソウルオリンピックの金メダルに意味付け「フォックス(金メダルを)キャッチャー(捕まえよう)」と意気込みます。

はじめはマークのポテンシャルで結果を残せたものの、デュポンにコーチとしての才能があるわけでもなく、チームの質はマークの外見と比例するように落ちていきました。それをデュポンはマークのせいにして怒り、マークの兄であり、元コーチだったデイヴを金にものを言わせて呼び寄せます。次第にマークを照らす光は闇に覆われ、以前よりも更に暗黒な影に包まれていくのです。

結局、フォックスキャッチャーの夢は叶いませんでした。そのこと自体は主人公たちの痛みであり、悲劇ではありません。痛み、苦しみ、怒り。この作品をここまで観ていると、主人公たちの栄光から挫折を描いたような、よくある人間ドラマだと感じてしまいます。

しかし、この映画は殺人が行なわれた悲劇です。最後にデュポンがデイヴを射殺する悲劇は、ただ単に三人の男たちを追っているだけでは正確な理解にはつながりません。それでは何が必要なのでしょう? デュポンの狂気を理解する最大のポイントは、確執が見られる彼の母親の存在です。

デュポンは母親が血統の良い馬を大事にしていることも、その馬たちのトロフィーが棚を独占していることも気に入りません。レスリングを下流にしか見ていないことも、自分がシニアのレスリングの大会で優勝したのに認めてくれないことも、全部気に入りませんでした。それは裏を返せば、母親から認めてほしい、褒めてほしいのあらわれで、馬よりも自分を愛してほしい、自分が好きなものを認めてほしい、自分が強いことを分かってほしいという気持ちが、全て空回りしているのです。

きっと母親は、デュポンには血統の良い馬のように、自分も名家の主人らしく、静かに品良く育って欲しかったのだと思います。しかしデュポンは生粋の愛国者で、戦車を買うくらい「力」に固執しています。ですからデュポンはサラブレッドのようにはなれません。彼はこの世で必要なのは、キツネを捕まえる猟犬(ジャケットにはアメリカの国鳥「ハクワシドリ」がいるので、そちらのイメージが正確かも)のような「力」であり、その象徴が「レスリング」だと言っています。デュポンがマークを呼び寄せた背景はここにあり、悲劇はここから始まっていくのです。

デュポンはマークと信頼関係を築くなかで、子供のころ親友がいたという話をしました。その親友は、母親に金で雇われていたということも…

そんな母親だからこそ、いくらデュポンが「力」を蓄え、いくらレスリングで成功としたとしても「全ては金で買えること」と心の中で笑っていたのに違いありません。ですから、その母親からみたら息子のデュポンがしていることは全てまがい物で、シニアのレスリングで優勝しても、自分で主催した大会なのだから、金で買った優勝だと思っていますし、若手選手たちを集め、母親の前で得意げにレスリングの指導をしたとしても、誰の目にもアマチュアだと分かる、にわか仕込みの指導方法では、実力がないのは見え見えで、金で買ったまがい物のポジションだということぐらい、直ぐに見抜いてしまうのです。

母親に認めてもらいたい息子。息子の言う「力」が全て金の力だと見透かす母親。デュポンが追っていたキツネは、「金メダル」でも「力」でもなく、結局は「母親から認めてもらいたい」という願いだったのかも知れません。そして母親の死により、永遠に認めてもらえなくなったデュポンは、金メダルの夢も失い、マークも去り、フォックスキャッチャーの思いも、希望も、全て消えようとしています。最後に残ったのは、きっと母親に見てもらいたかった、自分がコーチとしての活躍を記録したビデオテープ。しかしその出来は見るに耐えないハリボテの栄誉の記録で、画面には、滑稽な自分の姿しか映っていません。デュポンはビデオテープを観て、金では買えない自分の力のなさを実感したのだと思います。

デュポンは結局、何も捕まえることはできませんでした。母親との確執を埋めることも、フォックスキャッチャーに賭けた熱い夢も… そしてデュポンは最後に自分をコーチではなく、スポンサーにしか見ておらず、少しも自分をリスペクトしていないデイヴのところへ行き、「何か不満でもあるのか」と言って撃ち殺してしまいます。この「何か不満でもあるのか?」という言葉、本当は母親に向けたかった言葉なのかも知れません。

普通このような元の実話が存在するのであれば、ストーリーを加害者の目線にし、犯行に及ぶまでの狂気として描いてしまえば簡単で、観る側も分かりやすいと思うのです。

例えば「大富豪の主人公が殺人を犯しました」というスキャンダラスな題材をストーリーの本筋にすれば、栄光から挫折のコントラストがより明確になりますし、「シャイニング」をお手本に、主人公の精神的疾患を狂気として描くことで、分かりやすくウケやすい映画が作れると計算ができてしまいます。

しかしこの映画が本当に素晴らしいのは、被害者でも加害者でもなく、二人を繋ぐマークの孤独から淡々と静かに物語が進むことです。人の繋がり、関わりを静かながら丁寧に描き、マークの心のコントラストを軸にすることで、三人の男たちの心情を浮き彫りにし、複雑なドラマを見事描き切っています。本当に素晴らしい映画です。
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