まりぃくりすてぃ

デュエルのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

デュエル(1976年製作の映画)
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決闘っぽな題で、二人のヒロインがハッキリ決闘宣言するのに、決闘しないまま映画が終わっちゃう。戦います詐欺?

duel/ 決闘(名詞) 二つの・二重の(形容詞)
duelle/ duelの女性形(形容詞。名詞だとしたら造語?)
フランス語がよくわからない。。。。

あの大傑作『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で最も美しかったビュル・オジエと最も私に似てたジュリエット・ベルトが、太陽の女王・月の女王に扮して張り合う(毎冬の終わりに40日間だけ地球に滞在できる彼女たちが、永遠に地球に住まえるためのパワーダイヤモンド争奪戦をして地球人たちをそれぞれ巻き添えにするお話)というのだから、私必見の豪華ファンタジーのはずだったが、オジエとベルトが同じ画面にいたのは2時間映画の中でたった5秒間!!
ラストにかけてのクライマックスで、少年みたいなダサ女子リシュー役がダサ兄役に次いでチョロチョロチョロチョロしてウザかった。オジエvsベルトが見たかった全鑑賞者に監督は「元ネタの文学を読まなきゃ理解できないよ♪」と冷やかな笑みをくれるの?
まるで『厳しい流れ』という題で武蔵と小次郎を用意しながら両者とも島に上陸させず海上で行方不明にさせちゃう、みたいなもんじゃん。
でも、まあ、、太陽と月を同じ空に拝める機会って、ものすごく多いわけじゃないから、理にかなってる肩すかし、かも。。。

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太陽の女王ヴィヴァ役オジエの “奈々オーラ” と、月の女王レニ役ベルトの “ナナオーラ” が、それぞれ強い。二大オーラ(と他の大人っぽな女優さんたち)に映画が頼りすぎてて、遊び臭さが硬直。日本の仮面ライダーシリーズもこんな感じなんだろな。知らないけど、たぶん。
ホテルでの最初のグレタ・ガルボ風なベルトの登場、駅構内での謎のゲリラ撮影の長さ、不協和音すれすれのジャズコードを弾くジャン・ヴィエネルのお洒落る即興ピアノ、オジエのキスシーンの爆発力、青フィルターごしのキモチ悪い活劇調、スパイ映画のオーディションじみたベルトの拳銃扱いのぎりぎりセーフ感、、等々でチグハグ気味に進むこの映画で、文句なしの頂上といえるのは結局、オジエとベルトが唯一そろい踏みする(鏡割れからの)決闘宣言シーン。
いっそ、オジエを(ゲロっぽな名前からいっても)ゲロ吐き役、ベルトをレズビアンの人向けラブドールの不良品役にして、このメンバーで『ピノキオ√964』でも撮ったほうが、私好み。
狂ってる人たちが好き。

いったいなぜこんな肩すかし映画になったかというと、<オジエとベルトの不仲>あり??(☜私が言い出した説です♪)
前作『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は台詞の大半が自由アドリブだった中、ベルトがオジエのことを「こういう女が一番陰で悪いことしていそう」「あのアバズレが」と二度三度不必要なほど悪く言ってた。相方の女優が一度もオジエを悪く言ってないのに。それで、完成品を視たオジエが「ベルト、キライ! もう共演したくない」となったのじゃない?(☜完っ全に想像です♪)
ジョーン・クロフォードvsベティ・デイヴィスや、世Ⅳ虎vs惡斗とか、信頼関係のない者同士を戦わせると、惨事になりやすいから、ってことで直接対決を監督が忌避したか、または、実際には木の下での決闘を撮ったのに仕上がり悪くて編集でカットしちゃったんだと私は勝手に想う♪

本作では、あまりかっこよくない男優とのすばらしい誘惑キスのとこ以外では、何だか “頭部の大きい小柄なイケメンオジサンが女装した” みたいな傲慢そうな濁りのある佇まいに終始したオジエは、『セリーヌとジュリー…』の時ほどの絶対ドール度が揺らいでた。
あの『セリーヌと…』でお腹の底から大笑いしてたベルトが、本作ではわざとらしい作り笑いでカラカラ言って本心では楽しそうじゃなく器用貧乏にみえた。
ただ、そんなような太陽の女王、月の女王、ダサ兄妹……といったキャラたちを五点置きしてた中の、第五の主要人物──もう一人の金髪美人エルサ役ニコール・ガルシアが、(よく見るとぶっつぶれたような爬虫類顔ながら)優美さといえるような柔らかみのある表情演技や佇まいをもって台頭してた時間帯が、少しだけあった。意外にこのガルシアが、本作で一番得をした俳優さんだったかもしれない。

「オー・デュエル・オー・ド・パルファムつけてみる?」
(季語/つけ→ぬかみそ漬け→夏)

「やっぱNANA完結させてもらいたい」
(季語/NANA→七草がゆ→冬)