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ゼロの未来のエディのレビュー・感想・評価

ゼロの未来(2013年製作の映画)
3.6
コミュニケーション障害の気持ちの悪いおっさんがコミュニケーションに目覚め、生きる喜びを発見するというSF仕立てのヒューマンドラマ。カルト的なSF映画「未来世紀ブラジル」の監督だけあって、奇妙奇天烈な世界観が繰り広げられるが、荒唐無稽な設定ではなくブラック企業や社畜、企業に管理される社会といった現代の病巣を描いている。ただ、怪しい飾り立てや設定で無駄に難解にしていて、伝えたいメッセージがちゃんと伝わり難くなってしまっている印象を持ってしまった。

近未来という設定で町並みや小道具は映画「ブレードランナー」のような猥雑さが漂う。ブレードランナーが新宿歌舞伎町をモチーフにしたのなら、この映画は秋葉原をモチーフにしているようだ。そんな町でコンピュータープログラマーをしている中年のおっさんコーエンがこの映画の主人公。彼は自分の存在や生きる意味がわからなく、人との付き合いを避けて今まで生きてきたという典型的な引きこもりのコミュニケーション障害。そんな彼だがコンピュータの才能は優れていて、スーパーマリオのゲームコントローラーのような機器を使ってプログラミングを行っていく優れモノなので、勤務先のコンピューター社内の評価も高くとうとう彼は誰も解けなかった難問である「ゼロの存在を示す定理」を解くというミッションを与えられる。
人間の欲求を探り出しセールスに利用しているその会社にとって「何もない」というカオスの存在を明らかにすることは重要なのだが、そんな難問と格闘するうちにコーエンの身体は変調をきたしていくが、そんな彼をベインズリーという謎の女やボブという生意気な天才プログラマーがサポートするようになる。。。

この映画は近未来を舞台にしているが、描かれているものは今まさに起きていることだ。従業員をぼろぼろにするまでこき使うブラック企業で働くコミュ障のオタク。彼が遊んでいるように見えるのはゲームコントローラー型のプルグラムツールで、それを利用して人間心理の解析などをしている。メモリーカードの代わりに試験管が出てきたり、奇妙な広告が流れるなどの懲りようはポール・バーホーベンの「トータルリコール」のようなカルト臭が漂う。

コーエンは娼婦ベインズリーやボブとの交流を通して対人スキルを改善させていき、閉じこもった世界からの脱出を徐々に図っていくので、選択する時間もない中で溢れるモノにおぼれる物質文明とその中に溺れ、自分の生き様や自分が見出せないという孤独と、待っていても人生の意味など判らないので自分から切り開いて孤独から脱却するしかないといったことをこの映画は伝えたいのかと思う。

しかし、こんなまともなことを伝えようとしているにしては難解な映画に仕上がっている。今の時代の進み方が早くSFの設定に追いつき追い越そうとしているせいか、この映画で描かれていることのほとんど全てはSFじゃなく身近な問題になっている。そのため、近未来的な小道具を無駄に多用した結果、現代社会が抱える問題という重いテーマなのにリアリティを感じなくなってしまっている気がする。

せっかくの良いテーマなのに、怪しい張りぼてで焦点がぼけてしまっているのだ。なので、一見すると奇妙で怪しく何が言いたいのか判らないへんてこな映画にしか観えなくなっているのが勿体無い。
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