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マダム・イン・ニューヨークのlotusのレビュー・感想・評価

4.3
恋は要らないの。欲しいのは尊重されること。
という、主人公シャシの言葉を何かスローガンとしてどこかに掲げたい気分だ。


主人公シャシはインドに住む一見保守的な専業主婦。きちんと伝統衣装のサリーを着ていて、料理もうまい。でも実はラドゥ(見た目がお団子みたいなインドのお菓子)を家で作って他の人にも売る商売をしたり、息子にせがまれればマイケル•ジャクソンのマネをするし、娘がミニスカートを履くことを口うるさく注意したりしない。実はオープンなところのある女性だ。

なのに、英語があまり話せないために、家庭では夫や娘に軽んじられている。典型的な古くさいインドの専業主婦だと思われているのだ。

そんなシャシがニューヨークに住む姪の結婚式の手伝いのために、家族よりも早めに1人アメリカのニューヨークに向かうことになる。

飛行機の中で知り合ったインド男性に、「迷わずに、決然と、自信を持って!」と言われるが、英語が話せないシャシはなかなか堂々とできない。
昼食を取ろうと訪れたカフェで、なかなか注文が出来ない。英語で店員に捲し立てられる。ヴィーガン?具体的に何を食べたいの?
コーヒー?アメリカーノ?ラテ?カプチーノ?

まごついて答えられないと、店員にさらにバカにされ、後ろに並ぶ客にも早くしろと怒鳴られる。結局、何も頼めないまま逃げ出すように店を飛び出していく。すっかり自信をペシャンコにされて、パニックになって泣いてしまう。(ニューヨーカー、喋るの速いしなぁ。まぁ、あの店員は意地悪だと思う。)

けれどもある日街で見かけた4週間で話せるようになる!という英語教室の広告を見て、英語を学ぶことを決心する。

少しずつ英語を学んで新しい言葉を知ることによって、シャシはどんどん元気になっていく。カフェでペシャンコにされた自分を少しずつ回復させていく。

ある日、英語教室でentrepreneur(起業家の意。フランス語由来なので、おしゃれな響きがある)という言葉を知り、デビット先生に、お菓子を作って売るシャシさんはentrepreneur ですね、と言われる。

自分が細々と行なっていたことに名前があったことを知り、興奮気味に夫に電話で、entrepreneurという言葉を知ってるかと聞くと、夫は「ああ、知ってるよ。ラドゥでも配ってるのかい、起業家さん」と軽くいなされてしまう。
夫はシャシにとって大事な言葉を、価値のないものにしてしまう。

娘のかなり直接的な「お母さんはどうせ英語わからないでしょ!」という言葉もかなりの攻撃力だが、夫の、はいはい、とちょっと笑いながらまともに取り合わないマイクロアグレッションも、一緒に住んでいるとかなり辛そうだ。

夫に対して、なんで私と結婚したの?こんなに古風な女なのに、と尋ねると、
「一目惚れさ。考えたら結婚できない」と返される。「考えたら結婚できない」というのは至言ではあるが、このシーンで妻に言うべき言葉ではないだろう。「一目惚れ(=美人でおとなしそうで家庭的な感じ)」だから結婚したのであって、それ以上のことは求めていない、といった答えに、シャシは妻として軽んじられていると感じる。

ある日、シャシが結婚式で振る舞う予定のラドゥの味見会で、またもや夫がやらかす。
ラドゥをおいしい!と言ってほめる姪の婚約者ケビン(アメリカ人)に対して夫は、「妻はラドゥを作るために生まれたんだ。褒め言葉さ。ラドゥ作りは天分だ。」と言って笑う。とことん、ラドゥ作りを大したことのないものとしてバカにしているのだ。(映画冒頭でも、ラドゥを心待ちにしているお客さんのところに向かうシャシに、大した仕事じゃないんだから、止めれば、と言っている)

悲しくなったシャシは、英語教室の帰り道に、クラスメイトでシャシに心を寄せるコックのローラン(フランス人)に、「男性の料理はアートだけれど、女性のはただの家事。義務。」と心情を吐露する。
恋に落ちているローランは、もちろん全力で反論する。
「料理は愛だ。君の料理は愛が込めて作られているからおいしい。君はアーティストだ。ニューヨークで店を開けば?」と。

いろんな人に励まされながら、家族に内緒で英語を学び続けるシャシ。
だが、ある日事件が起きる。家族と遊園地に行き、乗り物に乗ることになる。シャシは脚が疲れたからと断り、姪にも協力してもらって英語教室に行く。
その間に、乗り物が終わってサッカーをしていた息子が怪我をするのだ。(と言っても、擦り傷程度)

その場を離れていたシャシは夫に、母親としての責任感がないと責められる。いったい何を考えているのか、と。
シャシは英語を学ぶことを応援してくれていた姪に、もう英語教室はやめる。私は身勝手な母親なのよ、と泣く。

なぜ、子育てにおいて母親が全ての責任を負わねばならないのか。というか、息子と一緒にいた父親のお前は何をしていたのか?(足を擦りむいた息子の世話は姪がテキパキとしていた)と突っ込みたくなるが、夫にはことあるごとに軽んじられてペシャンコにされているシャシは、英語を学ぼうなんて思わず、家庭の中に入るべきだと信じて英語教室をやめてしまう。(こういうのを、「内面化」といいます。相手が正しいと思ってしまっているので、自分が本当にどうしたいか、どう思っているかを押し殺して、相手の価値観通りに動くことが自分にとっても正しいし良いことだ、と思い込もうとしている)

最終日のスピーチ試験で修了書をもらうことを心待ちにしていたのに、シャシは英語教室を忘れようと結婚式の準備に邁進する。

けれども、なんとかシャシを応援したい姪やクラスメイトは、電話のスピーカーホンで授業を繋げる。一度は英語を諦めたはずのシャシだが、気づくと目にした英語ニュースの単語を追っている。

いよいよ結婚式当日。準備に忙しいシャシの元にクラスメイトとデビット先生が現れる。
シャシに協力的な姪がこっそり招いていたのだ。

その場で姪がシャシにスピーチを促す。夫が妻は英語が出来ませんので、と言ってしゃしゃり出ようとするが、それをシャシは止めてスピーチを始める。

結婚おめでとう。ここからが長旅です。この先、お互い相手から軽んじられるように思う時もあるでしょう。お互いを助け合うことが大事です。それでも、夫婦は時々相手が何を考えているのか分からなくなってしまいます。

そんな時に大事なのは、自分で自分を助けることです。自分を助けることができる最良の人は自分なのです。それができれば、あなたたちの人生はよくなっていきます。

家族は決して決めつけない。傷つけない。引け目を感じさせない。
家族だけがあなたの弱みを決して笑わない。
家族だけが愛と敬意を与えてくれます。

と、このあたりで夫と娘はきまずそうな表情になる。

スピーチが終わると拍手喝采。涙を流す人もいる。夫も娘も英語は話せるが人の心を打つような言葉は話せない。傷つけたり、軽んじるために英語を使っている。(このあたり、英国植民地主義の縮小再生産という感じ。自分のほうが優れているのだから、自分たちの文化や言語を理解しないものはバカにしてもいいと思っている)

このスピーチに、デイビット先生はもちろん、合格を言い渡す。

言葉を学び、大切にするシャシはそのようにして自信を取り戻していく。

シャシに思いを寄せていたローランに対して、ヒンディー語で、自信を取り戻させてくれてありがとう。でも、あなたに恋愛感情はないと言って別れを告げる。

シャシが求めているのは、恋ではなくて、尊重されることなのだ。

世の中において一般的に、女性というのは恋をしたいものだと、男性からも女性からも思われているが本当にそうだろうか?

まずは人のことをちゃんと同等の相手として尊重しなさい、自分で自分を大切にしなさい、というシャシはとても真っ当だ。

「普通の」インドの主婦が異国での4週間の冒険を経て掴み取った自信は、揺るぎないものになる。

帰りの飛行機で、CAに新聞を読むか英語で尋ねられ、ヒンドゥー語の新聞はありますか?と英語で答えるシャシは、入国当初のまごまごして不安気な様子はない。

「迷わずに、決然と、自信を持った」様子は実に見ていて爽快だ。

派手で規模の大きなインド映画ではないけれど、とても良い作品だと思う。
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