ふき

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密のふきのレビュー・感想・評価

3.5
コンピューターの祖の一人であるアラン・チューリング氏の第二次世界大戦前後における人生を描いたヒューマンドラマ作品。アンドリュー・ホッジス氏の伝記『エニグマ アラン・チューリング伝』が原作にあたる。

タイトルの「イミテーション・ゲーム」とは、日本では「模倣ゲーム」の名で知られる。簡単に言えば、「男性の振りをした女性」と「男性」の二人に被験者が質問をし、被験者が「男性の振りをした女性」を当てるゲームだ。チューリング氏は論文『計算する機械と知性:Computing Machinery and Intelligence』にて、模倣ゲームの「男性の振りをした女性」を人工知能に置き換えることで「機械が考えるとはどういうことか」を論じたことで有名だ。

二〇一〇年代にて多少コンピューターの歴史を齧った方なら、歴史上の人物であるアラン・チューリング氏についても把握しているだろう。彼がどのような人生を送り、どのような問題を抱え、どのように死んでいったか、公になっているからだ。その点において本作は、「我々の知るアラン・チューリング像とはまったく違う人物像の提示」ではない。
だが原作となる伝記や史実と比べると、脚色は多い。特に暗号解読やチューリング氏の功績周りは多く、ドイツ軍の暗号「エニグマ」に対抗する解読機「クリストファー」を考案するのがアランになっていたり、チューリング氏のコンピューターの祖としての描写を「エニグマに対抗する暗号解読機の開発を考案」にしていたりと、尺を短縮しつつ分かりやすくはなっているが、硬派な伝記映画としての正確性には乏しい。
またエニグマや暗号解読機の機構的な描写や具体的な改善も少ないので、実は暗号解読そのもののカタルシスもそれほど高くない。
では本作で描かれるものはなにか。
それはタイトルが示す通り、“模倣”だ。

本作のアラン・チューリングは、まったく会話の通じない人物として登場する。「俺たちは食事に行くよ」という発言の裏にある「君はどうする?」という意図を汲み取れないレベルで日常会話が成立せず、それゆえに少年時代から苛められていたことが語られ、チーム「ウルトラ」としてドイツ軍の暗号解読に当たる仕事では決定的な不和の原因になってしまう。お話の前半はそんな軋轢をオフビートな笑いを織り交ぜながら描き、「天才が普通の人間とのコミュニケーションを模倣する」様を見せていく。
後半になると、チームとして暗号解読に挑む傍ら、もう少し大きな模倣が始まる。チームやイギリス軍による戦争に勝つための模倣、イギリスが五〇年間続けてきた模倣、物語全体を包む模倣、そして実はアランが続けてきた“ある”模倣。前半で暖まっていた空気や中盤のカタルシスは一瞬で凍り付き、終戦に向けてお話は暗い影に覆われていく。
本作は模倣の善悪を判じてはいない。チームに対するアランの模倣や、世界に対するウルトラやイギリスの模倣が、大きな“正義”を達成したのは間違いない。そんな大きな枠組みでなくとも、人間は多かれ少なかれ何かを模倣して生きているからだ。だが大勢の様々な模倣の歪みを一身に引き受け、アイデンティティさえ手放さざるを得なかったアランが刑事に発する問いは、現在も世間の要請で自分を模倣せざるを得ない方々には間違いなく刺さるだろう。アランが電気を消す結末にもだ。

だがそういった“刺さる”部分を除いて一作の映画として評価すると、いまいちな部分は多かった。
前半のカタルシスにコミュニケーションの成就が置かれているにも関わらず、「話の通じないアラン」は序盤に強調されるだけで割りと普通に会話をするし、アランを拒絶していたチーム「ウルトラ」が考え方を変える過程も物足りない。チームと袂を分かつレベルの悲劇を経験したピーターが再起する展開もなく、アランと婚約していたジョーンの出番も最低限で、アラン以外の描写が薄口なのは否めないだろう。
また幼少期のアランを描く場面や、作品全体を包むアランと刑事が喋るシークエンスも、置き場所が悪い箇所がいくつかあって、構成の雑さを感じてしまった。
その辺りがしっかりしていたら、本作は私の特別な一本になっていたかもしれない。勿体なさを感じた作品だった。

ところで本作のアラン・チューリング氏について「人間が描けていない」「こんなヤツいない」「フィクションすぎる」などと言った方が、私の周りに何人かいた。つまりその方々は『イミテーション・ゲーム』という模倣ゲームに、「アラン・チューリングは機械である」と回答したわけで、その現実は正直、恐怖だった。
ふき

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