ふき

IT/イット “それ”が見えたら、終わり。のふきのネタバレレビュー・内容・結末

3.5

このレビューはネタバレを含みます

劇場では静かに映画を見る私ですが、ラストのアレには「マジかよ」と呟いてしまいました(挨拶)。

スティーヴン・キング氏原作の『IT』の二度目の映像化作品。
私は原作と最初の映像化作品(以降「九〇年版」)に対して、思い入れが強い類の人間です。ゆえに比較話やネタバレが増えますが、ご了承ください。

原作小説の『IT』に底流するのは、「一見平和な街の営み、その裏側で醸成される見えない脅威」という、キング作品の真骨頂とも言える恐怖だ。ひとたびそこに触れてしまえば、一見普通の気のよさそうな誰かが、モンスターに見えてくる。今まで何の変哲もなかった自分の街の陰に、恐ろしい存在を想像してしまう。恐怖作品の肝といえる、その不可逆性、知識の呪いによる現実側の侵食が、原作は本当に恐ろしかった。
それを映像化した九〇年版は、原作では凄まじい射程に達するお話を、一種「モンスター映画」に落とし込んでいた。だが大切なのは、「本来は陽気で可愛いはずの存在が、ふとした瞬間得体の知れないものに見えてしまう」というペニーワイズの恐ろしさが、まさに原作で描かれる肝のサブセットであることだ。その枠組みを守っているからこそ、「“IT”=ピエロ」の図式を確立すると同時に、長大な原作をばっさりシュリンクダウンしながら本質を外さないバランスに収める改変になりえたと思う(特に前半)。
(九〇年版に関する詳細はそちらの感想をどうぞ)

さて、そこに来て二〇一七年版の本作。
「一九八六年原作の作品を、二〇一〇年代にやるならこうなるだろうな」とは思えるリメイクではある。恐怖の演出の種類や方向や頻度、作品のスピード感、時代感を表すポップミュージックの引用などなど、「これはアレっぽいな」「あー、アレをこうしたか」と興味深く見られた。
ポップミュージックましまし演出に関しては、むしろ作中に固有名詞や歌詞をガンガン引用するスティーヴン・キング氏の作劇に近いものがあるので、九〇年版と比べてよくなったところだと思う(入れればいいというわけでもないが)。
また、中盤から終盤にかけては、展開を知っている原作ファンや九〇年版ファンだからこそ驚く箇所もある。そういう意味では、一切のネタバレを見る前の“今”、見て欲しい作品ではある。

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というわけで、まずポジティブ感想。
本作は子供時代で完結する(そして未来へ余韻を残す)ように構成されている。
大人版のキャストがまったく発表されない辺りで「まさか少年時代のみに再構成したのか?」と思っていたが、実際本作製作中は大人時代の製作が未定だったらしい。
そのため、原作の大人時代のエピソードも子供時代に取り込んでいるので、一切の情報を絶っていった身としては、初見は先が読めなくてドキドキした。本当にネタバレを知る前に見られてよかったと思う。
さらに、「Chapter1」で大人時代を先取りしたということは、「Chapter2」は文字通り誰も知らない『IT』に展開していく可能性もあるわけで、そこも楽しみだ。できれば大風呂敷を広げ切ってほしい。亀も匂わせたんだし!

また少年時代に焦点を絞ったことで、全体に「ダメダメ少年少女の成長譚」としての爽やかさが溢れている。「大人時代から見た過ぎ去った時間」の渋みも好きだが、これはこれで私の好きな味わいなので、よかった。甘酸っぱくもほろ苦い結末も、「“IT”を倒した! やった!」が本作の主題ではないことを考えれば、涙腺の緩い私は泣きますよ。
連続テレビ映画だった九〇年版ではやっていなかった、ベンの腹を傷付けるヘンリーなどの直接的描写があるのもナイス。ベヴァリーの父やエディの母も、もう最初から禍々しいムードが出ていて、街そのものが子供たちに襲い掛かる演出は、全体的に強化されているだろう。まあ、「なんでそこまでの行動に出るのか」という理由の描写がないので、見ようによっては片手落ちと思うかもしれないが(たとえばヘンリーは、ベンがカンニングをさせなかったせいで留年しそうになって、怒っていたのです)。

ここは賛否分かれそうなところだが、上記からも分かる通り、本作は「大人のキャラクターが子供時代を思い返す」という構成がオミットされている。つまり、原作や九〇年版の大きな魅力であった「ノスタルジー感」が映画の構造として準備されていないのだ。
それは見ている観客に委ねられているので、現在三〇代後半から四〇代前半のアメリカ人は、作中の文化状況が楽しいだろう。同時に、扱っている題材が普遍的なので、現在の子供たちも自然と受け入れられる内容だとは思う。
大人向けエンタテインメントとしての深みを一段失っているのは間違いないが、ひと繋がりのお話である原作や、テレビ映画として連続放送した九〇年版とは条件が違う。子供時代しか予定されていなかった状況で、「単体の作品として納得できる終わり」と考えれば、私は評価できる改変だと思う。
なにしろ九〇年版の前半は、「なんでだよ! あれだけ頑張ったのに!」と唖然とする結末だったのだから。そういう意味では、次回作への思わせぶりカットのせいで不快な後味を残すエンタテインメント作品に比べれば、遥かにましといえる(『FFXIII-2』とか『ターミネーター:新起動』とか)。

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さて、ここからネガティブ感想。
忙しい人は、一番下の「結論」を見た方がいいかも。

私が発表の時点で「ダメだなあ」と思ったのは、ペニーワイズのデザインだ。
口角から頬を伝って瞼を貫き眉に達するメイクを見れば分かるように、ペニーワイズについては完全に肝を外している。
念のためだが、ペニーワイズのデザイン自体はよくできている。メイクは単純な形で邪悪さを感じさせるし、笑うと頬の形に沿ってグニャッと曲がるのも面白い。衣装もより原作に近いシンプルな形状と色彩ながら、様々な時代のマッシュアップで存在の長さが感じられるのはいい。
だが本作のペニーワイズは、総体として恐ろしさを強調するデザインになってしまっている。ビル・スカルスガルド氏の演技も、基本的にはハイクオリティだが、ただ恐ろしいだけだ。それは「キング的恐怖」とも「ピエロ的なものへの恐怖」とも違う。
原作やティム・カリー氏が演じた九〇年版には濃厚にあった、「一見チャーミング、“なのに”怖い」という薄皮がなくなり、「怖いメイクに怖い顔、“だから”怖い」になってしまえば、ペニーワイズの魅力はそんな短絡的なものじゃないだろう、と言わざるを得ない。
強いて言えば、初登場はよかった。排水溝の奥の暗闇にパッチリ開いた目が浮かび、光に照らされた顔の下半分も楽しそうな笑顔。あそこだけは、デザインの恐ろしさを演出で隠していたので。
かように、一九八九年版『バットマン』でジャック・ニコルソン氏が演じたジョーカー、そのイメージを刷新した『ダークナイト』のヒース・レジャー氏のような成果は、本作のペニーワイズには生まれなかった、と私は結論付ける。

では単なるホラー映画としてはどうかと考えれば、それも是とは言いがたい。
まず、全体的に恐怖演出が単調だ。
本作は基本的に、「孤立したキャラのトラウマが刺激される」「ペニーワイズが襲い掛かる」「間一髪で脱出もしくは死亡」の流れで脅かしてくる。
個々の演出については、私は水準に達していると思う。特に少年少女の演技の上手さもあって、「孤立したキャラのトラウマが刺激される」部分の寄る辺なさに、子供が怖がりそうな恐怖の対象の選び方、正体不明のピエロを目撃してしまった得体の知れない恐怖がしっかり出ていて、そこは楽しんで見られた。
だが、「ペニーワイズが襲い掛かる」が問題だ。トラウマ演出で真綿で首を絞められる気分を「イヤだなあ」と楽しんでいるところに、3D用のドアップ演出で「ワッ!」と脅かしてくるものだから、逆に緊張感が完全に解放されてしまう。ゆえに、一人一人の恐怖が、一過性で終わってしまう。恐怖が重なり、練られ、映画全体に不穏な空気が醸成されていく、とはならない。ただのビックリ箱だ。これではドラキュラだろうがミイラだろうが大アマゾンの半魚人だろうが変わりない。
(というか、牙をむいた邪悪なモンスターが、ガーッとカメラに迫ってくる恐怖演出って……)
そして襲われる以上、「間一髪で脱出もしくは死亡」が必要になるわけだが、これを主人公チーム七人分+αやるものだから、ペニーワイズが何度も何度も獲物を捕まえ損ねているように見えてしまう。つまり、あまり強そうに見えないのだ。
原作や九〇年版は、威嚇の出現もあるし、ペニーワイズが遊んでいるような顔をしているから、取り逃がしてもまだ問題なかった。だが本作は本気のモンスターなので、その逃げ道も失ってしまっている。
というか、何度も何度もドアップ演出をされると、正直、天丼ギャグで楽しくなってくる。最初は本気で怖がっていた女子高生二人組が、途中で「またかよ!ww」と笑い出したのが印象的だった。

ジュブナイル映画としても、説得力不足だと思う。
なにしろ主人公七人が友達になる過程が希薄だ。
原作や九〇年版では、いじめっ子にダムを壊されたビルとエディのところに、同じくいじめっ子に追いかけられたベンが現れ、なにやらあってリッチーとスタンが合流、ダムを再建していくことで友情を深めていく。そして紅一点のベヴァリーが加わり、いじめっ子に追われていたマイクを助ける時に、全員の力を合わせていじめっ子を撃退することで、結束が完成する構成になっている。
ところが本作では、ダム再建をカットしているのだ。子供時代で完結する構成から、「主人公の一人が将来なる職業を暗示する展開」としての意味はないとしても、「みんなでなにかを作る」はこれ以上ない友情育みエピソードなのに、だ。川に飛び込んで泳ぐエピソードの方が大事とは思えない。
ただ、これは敢えての改変の可能性もある。本作はそもそも、結束を演出していないからだ。序盤の「下水に入る」「入らない」「来い」「ヤダ」の長いやりとりや、ギャグっぽいとはいえ廃屋に入りたがらない面々、エディの骨折からの一時離散などなど。だからこそ、ダムをカットして、「離散からの結集」展開でアップダウンをつけようとしたのかもしれない。
だがどちらにせよ、決定的に結束するエピソードはなく、気付いたら結集してクライマックスに挑んでいる。だったら最初から結束していれば? と思った。
七人の力を合わせてのクライマックスも、上記の通り説得力のない「結束した」でペニーワイズを文字通り集団リンチにし、そして勝ってしまうので、カタルシスは弱い。原作や九〇年版にあった、対モンスター兵器の銀の物体や、エディの勇気の象徴である喘息の薬を、如何にも近代武器の屠殺用エアガンに変更したのもパワーダウンだし、マイクが持ってきたそれをビルが使うのも捩れている。

また、前述の「離散からの結集」展開もそうだが、大人時代のエピソードを摘み食いした結果、全体の流れが崩れている箇所が多々ある。
たとえば、「詩を書いたのがベンだと、ベヴァリーが知る」展開を子供時代に持ってきたことで、恋愛模様が妙なことになっている。
本作は、ビルとベヴァリーの友達以上恋人未満状態で始まり、途中でベヴァリーがベンの気持ちに気付いて淡い恋模様が生まれる。クライマックスではベンのキスでベヴァリーが意識を取り戻すので、ベヴァリーはベンと恋人関係になるような予感を孕んで結末に向かう。
が、最後の最後でベヴァリーとキスするのは、結局、実質的な主人公であるビルなのだ。感動的な場面に演出されてはいるが、私は「あれ? お前なの?」とモヤモヤしてしまった。
子供時代で完結させる改変をするのは構わないが、現状はところどころでパッチワークのほころびが見えてしまっている。

一九五七年を一九八九年に変更したのは概ね問題ないが、一点だけ。
あの時代に「シルバー号」はないだろう。ビル少年が自転車に「シルバー号」と名付けるのは、原作の少年時代が『ローン・レンジャー』がテレビドラマと映画で大人気になった一九五〇年代だったからこそ、自然なネタだ。これを単純に一九八九年に持ってくると、「それってある?」と思ってしまう。
「ビルは昔のものが好き」などと理由を付けるか、劇中で何度も強調される一九八九年感を表すネタにあわせてアレンジするか、工夫が必要だったように思う。ちょいちょい映る『バットマン』ネタでもいいんじゃない?

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結論。
『IT』の映画化としては肝を外している。
モンスターホラーのジャンル映画としては、一三五分と長く、その内容も九〇分(九〇年版の前半)から延びた部分はビックリ箱の連続でしかなく、恐怖演出がくればくるほど退屈。
ジュブナイル映画としては……いや……ダメじゃない?

大人時代のChapter2を見れば遡って評価が上がる、というものではないと思う。大人時代に向けた前振りもないし。
一〇〇分前後に圧縮した再編集版、もしくは大人時代と子供時代をカットバックする完全版、できないかな……。

追記
「続編製作決定」って、完全に大人時代のことだと思ってたけど、まさか、『IT:2043』とかやらないよね?
『不眠症』みたいな老人ホラーものだったら、キングさんオリジナル脚本で見てみたくはあるぞ。
ふき

ふき