あまり観ていなかったアジアの映画を出来るだけ観ようと思って、台湾で映画制作をしているツァイ・ミンリャン監督の引退作と言われていた『郊遊』(2013)にしてみた。タイトルの郊遊はそのままピクニックの意味である。アジア映画に多い、瑞々しくてロマンティックで前時代的なまでに素朴な発想が苦手であったので、今回も半信半疑であったが、本作はまったく素朴じゃなかった。(^^)
コンテンポラリーアートのインスタレーションのような風合いがとても強い。前半分は都市を巡る省察のようだし、後半の女のアパートの美術的な壁面のデザインであったり、壁面だけで天井がないのが分かるように撮影に壁の断面を映しこんでいるので、なおさらアートイベントでのインスタレーションのようなイメージが出ている。ウィーラセータクン監督の『ブンミおじさんの森』(2010)以上に、誰かまだ会ったことのない人がきっと映画を理解するだろうから、とにかく投げてみよう、という感じか。鼻持ちならん、と感じる人はきっと多いだろうが、立派な映画である。どんどんやって欲しい。ちょっと、精神に革新が起こった気がする。(^^)
①広角レンズのロングテイクで攻めまくる。広角を使ったからそういう作戦にしたのかは知らないが、斜に構えながら基本的にアングルをつけている。それでZ軸を強調できるモチーフ(汀や店の陳列棚の列等)を選んで、じっくり長回しで、執拗に映画空間を作る。
②排尿、食べ物の咀嚼、風呂、人間看板の仕事等をしつこく映して、映画空間にアニマを入れておく。
③ガラス面や鏡面で分身させたり、ガラス越しに撮って身体の輪郭線を拡散させる。出るぞ〜って思わせとく。
④キャベツを貪るのと妻との性行為を重ねて、土砂降りの雨、離れていく小舟への落下、樹上からの子供の奪取等のダイナミックな展開で、完全な喪失を一気に表現する。雨の録音もかなり優れている。
⑤荒涼としているが、おどろおどろしい壁の家で、ゴーストの話はするが、ゴーストを出さない。(やるなぁ〜って思う。(^^))
⑥女に排尿させてマーキングしておいた石だらけの河岸の壁画の間で、女を消失させる。この空間は犬がたむろしている空間と接続している。この辺はアンドレ・ブルトンの『ナジャ』みたいに「私とはその犬だ」的な無意識の同一化を狙って、誘導しているのかな。この女の消失に至るラストシークエンスは、もちろんロングテイクなんだけど、死ぬほど緩慢でほぼ静止!レンズに焼き付くくらいに長いから、機械のことをはらはらしたのか、映画内の生成消滅にどきどきしたのか不明。よう分からんが、凄いね〜。(^^)
全体的にちょっとフェリーニの『ローマ』(1972)を思い出すよね。あっちはゴースト出ちゃってるけど、ローマ徘徊奇譚だよね。こっちは台北のホームレスの徘徊=都市のピクニックなわけだが、リアルに喪失を定着させ、幻想であると切り捨てさせずに映画を終わらせている。えーっと、ホームレスが喪失?何も持っていないのに?
否定神学的にないものを出現させているんだけどね。ゴーストの新しい表現でしょうな。素晴らしい!