エジャ丼

レヴェナント:蘇えりし者のエジャ丼のレビュー・感想・評価

レヴェナント:蘇えりし者(2015年製作の映画)
4.3
「復讐の先に、何があるのか。」

アメリカ西部のハンター、ヒュー・グラスは食料を求めて森を彷徨っていたところ熊に襲われ瀕死の重傷を負う。ヒューの最期を見届ける役をヒューの息子ホーク、若きジム・ブリッジャー、ジョン・フィッツジェラルドが埋葬をすることを条件に引き受ける。しかしフィッツジェラルドはヒューの目の前でホークを殺し、ヒューを見捨てて去ってしまう。奇跡的に一命を取り留めたヒューは、復讐心を胸にフィッツジェラルドを追い始めるが、そこには壮絶な試練が待ち受けていた。

壮大な自然で撮影された美麗な映像に加え、生のレバーを食し、馬の死体の中で眠る、ネイティブ・アメリカンの言語を習得するなど文字通り体を張った演技を見事披露したレオナルド・ディカプリオの役者魂。自然の過酷さそして人間の弱さを観る者に突き付けた。

※ネタバレ注意

今作の主軸となるのはヒューの復讐であるのは間違いないが、それ一筋に終わる映画ではないことが観れば明らかである。ヒューの夢だろうか、妄想だろうか、宙に浮くヒューの妻や教会跡と思わしき場所に現れるホーク、なにかの動物の頭蓋骨の山、そして劇中で登場するどこかから引用されたと推測できる意味深なセリフ。舞台である大自然とは似つかわしくないファンタジー的なカットが挿入されていることから、何か裏テーマがあるに違いない。

調べてみた。

そもそもこの物語の舞台となるアメリカ、時代は1823年。劇中で"善人"として描かれるのはヒューたち白人、対して全編に渡ってヒューたちを追い続ける先住民(インディアン)は"悪人"=敵として描かれている。アメリカ大陸を侵略し征服する側は"我々"であり、その我々は大陸を征服する上で邪魔者となる先住民の食料を断つためパイソン狩りを行なっていた、という史実に基づいていることからあの頭蓋骨の山のシーンに繋がるのである。つまり公平な視点で見たときの"侵入者"である入植民の我々があたかも正義であるかのように描かれていることは、ヨーロッパ諸国の人民のエゴに基づく征服をある種批判する意図が込められていると言ってもいいだろう。先住民が我々を追い続けるのは当然の反応であり、この映画の時代背景のまず前提として観なければならない点である。

Revenge is in God’s hands. Not mine.
『復讐は神に委ねられた。私ではない』
《復讐するは我にあり》
この言葉は新約聖書の一部であり、ラストシーンで印象的なセリフである。その部分(ローマ人への手紙・第12章第19節)の全文は
「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。
録しるして『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」
この引用元からヒューはキリスト教を信仰していること、ホークがいた教会はキリスト教会であったことが考えられる。そもそもキリスト教には「原罪」という考えがある。たとえ実際に罪を犯していなかろうと、道徳的な罪や復讐心、恐れなどを持っていれば神からすれば全ての人間が罪人となる。
そう、この映画のメインである「復讐」こそがキリスト教における罪なのであり、ヒューの行動の原動力となる。しかしそれはキリスト教への信仰の薄れの現れであり、それにあたかも神が裁きを下すかのように、ヒューには様々な困難が待ち受ける。ヒューはフィッツジェラルドを追いながらも、とある何者かに追われる身でもあったはずだ。ヒューを襲う者とは、そしてあと一歩、というところでフィッツジェラルドへの復讐を本当に下したのは、一体誰であっただろうか?

復讐は神に委ねられた。この映画で神が行っていたのは罪人に対する裁きであったと理解できただろう。神は入植者の罪を決して見過ごしはしなかった。その罪人のうちの一人であり、一度信仰の気持ちを失いかけたヒュー、彼は神に自身の罪を告白することで「生」という救済を受けた。復讐の先にあるのは、救いであった。『レヴェナント 蘇りし者』の裏テーマは『信仰』である。