dm10forever

沈黙ーサイレンスーのdm10foreverのネタバレレビュー・内容・結末

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

【自分の無知を知る】

来たね~。個人的には今年No1の最有力候補。
江戸時代の長崎の風景を力強く描き、またそれに負けないくらいの俳優陣の素晴らしい演技。
遠藤周作の名作「沈黙」が50年のときを経て見事に映像化されました。
普段から原作等は読まないまま映画を観るタイプですが、今回ほどそれが自分にとって大きな意味を持ったと感じたことはなかったです。

舞台は江戸時代。
キリスト教弾圧が激しさを増す長崎でフェレイラという神父が棄教したという知らせが遠く離れたローマの教会に届く。
その知らせを聞いた二人の司祭、ロドリゴとガルペはその知らせが信じられない。
何故ならその二人を教えた人物こそがフェレイラだからである。

真相を確かめるべく二人も異郷の地日本へと向かいます。
当時は今とは違い航路も確立されていない状況で、まして日本への入国は難しい状況でもあったため、中継地点のマカオに降り立ち日本への密航方法を探ります。
そしてこのマカオで後に大きく物語を動かすこととなる「キチジロー」と出会います。

片言の英語で何とか要件は伝えたものの、人としてどこか不安定な雰囲気が払拭できないキチジローを信じて付いて行っても大丈夫なのだろうか・・・。
不安が募ります。
結果的にやっとの思いで日本に辿り着いた2人でしたが、彼らが目にした光景は、それまで自由意志で信仰が許されていた欧米の雰囲気とは180度違うものでした。
人々は貧困に喘ぎ、蔑まれながら生きていたのです。
さらにキリスト教を信仰する信者(信徒)は切支丹と呼ばれ、異教を信じる危険な存在として厳しい弾圧を受けていました。
領主に隠れて信仰を貫く「隠れ切支丹」の姿は、それまで彼らが接してきた信者の姿とは全く異なるものだったのです。

物語の舞台ともなっている長崎県では何故ここまでキリスト教信仰が根強かったのか?
それは1549年のフランシスコザビエルらイエズス会が長崎県生月島でいち早く布教活動を始めたことに由来するとも言われています。
江戸時代に入って幕府はキリスト教に対して「禁教令」を発布し、各地域にいたキリシタンたちは直ぐに途絶えていきましたが、長崎県に根付いていたキリスト教信仰はすでに人々の生活にまで浸透し地域によっては何代も受け継がれていたものも多かったため、一般的なキリスト教とは違う独自の様式や形式での信仰を守り続けたとされています。
その中で隠れて信仰するための道具や隠語などを伝承して入ったことから「隠れキリシタン(潜伏キリシタン)」と呼ばれました。

実はキリスト教に対する潜伏信仰は明治時代まで続き、国際社会の猛反発を受けた明治政府が折れる形で「信仰の自由」が保障され、それと同時に隠れキリシタンという定義は存在しなくなったと言われています(実際はまだその独自様式を守って信仰を続けている人々がいるという話もありますが・・・)。

そのような状況の日本での布教活動、フェレイラ神父捜索活動は困難を極めます。馴染みのない日本語に苦労したり、キリスト教に対する独自の解釈にギャップを感じたり・・・。
当初ロドリゴとガルペは一心同体で活動を行ないます。
しかし次第にお互いの心境に微妙なズレが生じ始めます。
ここら辺はきっと色々な解釈で分かれるポイントだと思います。
そんな中で僕個人の見解としては「スコセッシ監督はガルペを通してロドリゴの内面を映し出したかったのではないか」というものです(反面教師といってもいい)。
確かに同じ宗教を信仰し、フェレイラ神父という同じ師を持つ二人であれば、別人格であるという事は織り込み済みとしても思想や価値観(信仰に対しての)は同じか同等であったと考えられますが、実は序盤から二人は少しずつずれ始めます。

例えば炭焼き小屋での口論や天国(パレイソ)はあるかと問われたときの回答など、信仰に対する解釈の中に自分の感性をチラつかせるのです。
これはこの二人が極限状態に追い込まれていく過程の描写として、時間的にはあまり重きを置かれてはいませんでしたがその後の展開的には重要なファクターとして位置づけることが出来る演出だと思います。

そんな中、彼らが潜伏していた村の長老(じいさま)と村のまとめ役であったモキチが井上筑後守に潜伏キリシタンだと嫌疑をかけられます。
彼らはキリストの絵を踏むように強要されますが踏むことが出来ません。しかし、キチジローだけは絵を踏んでその場の難を逃れるのです。
かくしてじいさま、モキチら三人が「見せしめ」として海で処刑されます。

その様子を見ていたロドリゴ達の胸には「これが殉教なのか?それまで私が思っていた殉教とは安らぎの中に光に満ちた天使たちが迎えに来て天国へと旅立つことだと思っていた。それがどういうことだ。この国にはそんな安らぎは微塵もない。これを殉教として受け入れるべきなのか?」という思いが去来します。

そして唯一絵を踏んだキチジローの事も考えます。
彼は隣の集落に暮す若者でしたが、彼を含めた家族全員が「潜伏キリシタン」でした。
ある時彼の一族は全員捕らえられ踏み絵を強要されました。
そして今回と同じように唯一絵を踏んだのがキチジローでした。

「私はじいさまやモキチのようには強くなれません。彼らのように強い信仰心を持って殉教すればパレイソ(天国)にも行けるのでしょうが、私のように弱い人間はどうしたらよいのでしょうか?」

実はこの言葉こそがこの映画の根幹を成す大きなテーマでもあります。

「神は私たちに何をしてくださるのか?」

強きものも弱きものも救いを求めて神に対して祈りを捧げます。
しかしいくら祈ったところで神からの回答はありません。
そこに仏教でいう「悟り」のような解釈があるのかな?とも考えましたが、キリスト教はあくまでも教典(聖書)に沿って行動し、そして祈りなさいという教えに行き着きます。
子供の頃「シンジルモノハスクワレル」って片言の振りして遊んでいましたが、実は真相は本当にそこであって、信仰や祈りの先にあるのは「救済」だったのです。
かといって物質的な救済などがあるはずもなく、その救済の意味を知るために人々は宗教を学びます。
しかしいくら学んでも「神の救済」は訪れません。
こんなに信心深くあなたを信仰しているのに何故あなたは私たちを救ってくれないのか・・・

それがこの作品でいうところの「沈黙」なのです。

一緒にいることで密告などのリスクも高まるため、ロドリゴとガルペは行動を別にすることになります。
この辺からロドリゴの苦悩は加速度的に深いものになって行きます。
徐々に厳しさを増す村への弾圧にロドリゴは村を離れ隣の村へ行く決心をします。
そしてその道中キチジローと再開しますが、ロドリゴは彼を信じることが出来ません。
殉教の道を選ばずに自分の命を選んだ、いわば「弱くて卑しいもの」と蔑んで見ていました。
しかし彼はキリストを裏切ったわけではない。
私は弱い人間なのだとロドリゴに告解を求めます。
気乗りしないながらも告解を施すロドリゴ。
しかしロドリゴの中にはキチジローをどうしても受け入れらない悶々とした思いが立ち込めていたのです。
案の定、ロドリゴはその道中に井上筑後守の手下によって捕らえられます。
キチジローが僅かなお金と引き換えに密告していたのです。
「パードレ!許してくんさい!パードレ!パードレ」
地面に額を擦り付けて泣き叫ぶキチジローに対して、役人は蔑むような目で僅かな銅銭を放り投げるのでした。

ここまでの関係性を見たときに勘がよい人はもう気が付いていると思いますが、遠藤はキチジローに「ユダ」を重ねていました。
キリストを僅かなお金の為に裏切り、その結果キリストが十字架に架けられてしまうきっかけを作った張本人です。
彼は聖書の中のみならず後世に「裏切り者」の代名詞としてその名を残すこととなりました。

ではキチジローがユダならばロドリゴはキリストという位置づけだったのでしょうか?確かにロドリゴの苦悩はキリストのそれと似た経路を辿ります。
しかし、終盤で決定的に違うという事がわかりますので、それについては後ほど。

囚われの身となったロドリゴは井上筑後守や看守とのやりとりの中で、日本におけるキリスト教とはどういうものかということを説かれます。
しかし頑として棄教を拒むロドリゴに対して井上はある人物に引き合わせます。
「沢野忠庵」
しかし彼の本当の名前はフェレイラ。
そうロドリゴとガルペの師であるフェレイラ神父です。彼はキリスト教を棄教した後、日本名を与えられ日本人の妻も娶って僧として日本で暮らしていました。

フェレイラはロドリゴに説きます
「日本は沼のような国だ。全てのものを腐らせる」
これは単に理解できないものへの卑下ではなく、当時の日本の状況を的確に表している一言でもあります。
彼は日本ではキリスト教が根付かないことを悟り棄教したと言っていましたが、実際のところは最後までわかりませんでした。

フェレイラに会って絶望にも似た状況に置かれたロドリゴ。もはや神に祈るしか救いの道はない。しかし自分が棄教を拒み続けることで、自分の周りにいる沢山の日本人が厳しい拷問の末命を落としていく毎日が続く。
自分さえ絵を踏めば、「転ぶ」と言えばこの苦しみからも解放されるかもしれない。
しかしそれは今まで命よりも大切にしてきた自分のアイデンティティを無にするという行為。全ての信者たちを裏切ることにもなる。
いったいどうしたらよいのか・・・なぜ神は黙っているのか。

そこへフェレイラ神父が現れこう言います。
「お前が恐れているのは絵を踏むことではない。お前は自分自身を守りたいだけなのだ。絵を踏むことで協会から批難されることが怖いのだ。だから絵が踏めないのだ。かつての私がそうだったように・・・。お前がこうしている時にも村人達は拷問を受け続けている。こうしている間ずっと・・・」

何かを決心したロドリゴはゆっくりと絵に向かって歩み寄ります。
そしてそこには今まで命よりも大切と思ってきたモノが無造作に地面に置かれています。
彼はゆっくりとその絵に足を置き、そしてその場に泣き崩れました。

その時、ロドリゴの心の中に「あの人」が現れました。

「何故あなたは黙っておられたのですか?」
(私は黙っていたのではない。私は常にお前に寄り添っていた。お前の痛みを分かつために)
「あなたはかつてユダに『去れ。そして為すべきことをするがよい』と言われた。だがそれではユダは救われない。あなたはユダを見捨てたのですか?」
(私はそうは言わなかった。ユダは今のお前のように傷ついていた。私はお前に「踏むがよい」と言った。そしてユダにも同じように「為すがよい」といったのだ。)

キリストは「汝ら」が犯した罪も負った痛みも全て受け入れるためにずっと隣に寄り添っていたのです。
≪苦しみはお前一人が背負うものではない。私もともに苦しもう。≫
それが「救済」なのです。

その後ロドリゴはキリスト教を棄教し、二度と司祭を名乗ることはありませんでした。
しかしそれはキリスト教から離れたという事を意味しますが「キリスト」の真意への気付きは心の中の奥深くにしまいこんでいることの裏返しでもありました。
ロドリゴはキリストと同じ道を歩んだのではなく、キリストの「沈黙」の中に「気付き」を見た日本最後の宣教師だったのです。

とてもこのスペースでは語りきれないくらい多くの感情が入り乱れた作品でした。
以前岡田斗司夫さんが「人間が究極に感動すると呆然としてしまう」という趣旨のことを言っていましたが、ちょっとそれに似た感覚でもあります。
泣けばそれも一つの感想なのかもしれませんが、一度泣いてしまうと「この映画は泣ける映画だ」と自分にバイアスがかかってしまい、そこでその他の感情を遮断してしまうことがあります。
本当に心から色んな感情が湧き出てくる映画の場合、「泣く」だけでは終わらないんですよね。
だから意味がわかる気がするんです、この言葉。

更に言えばここに今まで書いたことはまだ感想の10分の1程度ですが、それでも宗教(特にキリスト教)に対する無知も多分に含まれていると思います。
決してそれらを中傷する意図はありませんし、全ては自分の教養のなさが原因です。
ただ冒頭に書いた「予備知識や先入観を持たずに純粋な気持ちで作品を観る」ことの意味について、今回ほどよかったと思ったことはなかったと思います。
無知であるからこそ知への欲求が高まり、それが自分の言葉で自分の「血」となり「知」となるのだと思います。

そういった意味でも恒久的なテーマでもある「信仰と人間」について考えるきっかけを与えてくれたこの作品に感謝したいと思います。
dm10forever

dm10forever