観る前までは、熱血教師と教え子の物語だと思っていた。
しかし、そうではなかった。端的に言うとこの映画は「伝説を作ろうとする者と、伝説になろうとする者」の映画だ。
二人の最終的な目的は同じだ。しかし、漠然としている。伝説とはなんだろうか。作ろうと思えば、なろうと思えば、作れたりなれたりするものなのだろうか。
劇中、教師の指導は見るからに常軌を逸している。教師には教師なりの考え方があると示されるのだが、それにしたってヤバすぎる。作り手もそれをわかっているので、歯止めの効かない狂気が冒頭から炸裂する。
対して教え子である生徒は、教師についていくためにプライベートをかなぐり捨てる暴挙に出る。他にもいろいろと無茶をしでかす場面が続き「教師もアレだがコイツも相当だな」と思わざるを得ない。
果たしてこんな二人を主軸に添えて「良い話」が作れるのか?
答はノーである。この映画は「教師と教え子」というシチュエーションから想像できるような結末には着地しない。
では感動できないのか? というとこれもノー。
ではこの映画はどういう映画なのか。
劇中、実在し伝説と呼ばれたジャズアーティストの話が出てくる。まさに下地となったであろうエピソードなのだが、『セッション』はそのエピソードをなぞるだけの映画ではない。つまり「伝説とは何か」と定義づけて観客に提示はしないのだ。
『セッション』のクライマックスは、その顛末どう受け取るかを観客に委ねている。我々に、それを「伝説」と呼ぶかどうかの判断を。
私は胸を張って言える。
「ラスト9分の間に伝説が生まれる瞬間を目撃した」と。
どんなに登場人物が好きになれなくても、共感できなくても、間違っているとしか思えなくても、そもそも良い話でなくても、『セッション』には伝説を目撃したことへの「感動」があった。他の映画では辿り着けない境地で、今も血塗れのドラムがリズムを刻んでいる。