ダワーニャミーンビャンバドルジ

ネオン・デーモンのダワーニャミーンビャンバドルジのレビュー・感想・評価

ネオン・デーモン(2016年製作の映画)
3.7
モデル業界を舞台にしたサイコホラー。監督は『ドライヴ』や『オンリー・ゴッド』でお馴染みのニコラス・ウィンディング・レフン。いつも独特な色の使い方をする人だなと思ってはいた(『ブロンソン』はそうでもないか)けど、レンタルのBlu-rayの特典インタビューでまさにその配色について質問された時にレフンが「僕は色覚障害があるので、映像の色は僕が見える色です」と言っていたのが何気に衝撃的だった。初めて聞いたけど、わりと有名なのかな。Wikipediaにも一応載ってたから知っている人は多いのかもしれないけど…

ルビーがモデルのメイクの仕事と掛け持ちで死人のメイクもやってるのが個人的にかなりツボ。モーテルから逃げてきたジェシーを襲って断られた後とか、ソファに横たわるジェシーを想像しながら若い女性の死体(内臓処理済)と死姦しちゃうとことか、ちょっと直視できない恐ろしさが出ていて最高。

あと、モデルの世界の話だから当たり前と言えば当たり前なのだけど、まあ鏡越しショットが多い。そしてこれも当たり前なのだけど、そうした鏡越しショットにおいてカメラのピントが合うのは、人ではなく鏡に映る像。

パンフで滝本誠がピラミッドイメージについて言及してた気がする(読んでない)けど、本作での三角形のモチーフはピラミッドイメージ=内面的パワーの象徴、というよりはむしろ、あらゆる物が自立するために必要な支えの数の象徴であるようにすら思う。必要な満たしているが十分とは言い難い、実に危うい自立の象徴。2つでは足りないのだ、何故なら、その2点が紡ぐのは線であり面ではないから。面を紡ぎ出すためには"最低でも"3点必要になる。だがその内1つでも欠ければ、面から線に逆戻り、という危うさがそこにはある。

そしてジェシーは"3点"のチョイスを間違えた。彼女の周りに最後に残ったのは、落ち目のモデルのサラと、整形に取り憑かれたジジ、そしてレズビアンのメイクアップアーティストのルビー。3つの点を自ら次々と突き放して支点を失ったジェシーは、崩れ落ちるというよりむしろ文字通り落下する。だがそれは偏に彼女の選択の問題だった。彼女は家族を、故郷を、そこにいる友人を捨ててロサンゼルスにやってきた。ネットで出会ったとはいえ純朴そうなカメラ少年ディーンと出会ったはいいが仲違いした。モーテルに関しては離れて正解だっただろうけれど。

滝本が三角錐型の「平面展開図」と表現した図形は、よく見てみれば3つの三角形の集合でしかない。それらは接合されておらず、したがって真ん中に見える三角形は単なるまやかしに過ぎない。真ん中に存在するのは三角形に似た虚像である。嫉妬、憧憬、性愛の対象として辛うじて浮かび上がる虚像だ。

そもそも、あれをピラミッドの平面展開図と呼ぶのは無理がある。ピラミッドは三角錐ではなく四角錐であるからだ。ピラミッドイメージを本作の考察に当てはめるならば、前述の3人にディーンを含めた4点によって、ピラミッドの底面が構成されると考えられよう。ならばジェシーの死は、ディーンとの仲違いによって底面を構成する四隅の一角を失ったことによる崩壊、と捉えるのが妥当だろうか。

そしてこれは前回劇場で見た時も抱いた感想なのだが、ジェシーは自らが「危ない子」と親に呼ばれてきた理由を真に自覚していなかった、それこそ彼女を「危ない子」足らしめた最大の要因である。彼女がどんなに崇高な美を体現していようとも、彼女は実体を伴った生身の人間であり、だからこそ支点無しで宙ぶらりんになることは叶わない。だからこそ彼女には強固な土台が必要だったのだが、土台が彼女を引き摺り下ろそうとしてしまうのだから崩壊しない訳がない。そういったものを支点に選ばない知性や、支点を愛し愛される内面の美しさがあれば話は別だったのかもしれないが。そう考えると結局のところ、ランウェイ後のディナーの席で内面の美の重要さを信じて馬鹿にされたディーンは、やはり正しかったのかもしれない。