ダワーニャミーンビャンバドルジ

天気の子のダワーニャミーンビャンバドルジのレビュー・感想・評価

天気の子(2019年製作の映画)
2.7
新海誠監督の最新作。過去作は一通り鑑賞済み。まあその内の殆どは見たのがだいぶ前だから、鮮明に覚えているわけでは決してない。

結論から言うと、個人的には本作はそこまで好きではないし、客観的に見ても、そこまで出来の良い作品とは言えないと思う。



以下ネタバレ。(と言っても、本作のネタバレより『君の名は。』のネタバレが多いので、『君の名は。』を未見の人は気をつけて!)



前作『君の名は。』と本作の共通点は少なくない。ヒロインに与えられるスキルは突飛なアイデアというより古典や伝承に着想を得たものであり、ボーイ・ミーツ・ガールであり、主人公たちはティーンであり、相変わらず背景の描かれ方は緻密で、前作の主役たちがカメオ出演するし、音楽担当はRADWIMPS。


だが、共通点ばかりではない。

例えば、前作とのテーマの本質的な差異。『君の名は。』は巨大で回避不可能な自然の脅威を前に、主人公たちはささやか(でありながらもミクロな視点から見ればやはりユニークで力強いけれども)な能力を駆使してその脅威が通る道から人々を遠ざけようとする、すなわち人が自然を往なす物語だった。

対して本作のヒロインは、前作に登場した、力強いものの奥ゆかしい能力とははっきり言って正反対のものを付与される。「100%の晴れ女」は、その祈りによって雲間をこじ開ける。本作は、人が自然を押しのけること、またそれに伴う代償を描く物語だ。

2016年の大ヒット作の「勝利の方程式(方程式ではない)」を踏襲しつつ、前作との確かな違いを生み出し、次のヒットを生み出すことを宿命付けられた新たな作品として産声を上げたのがこの『天気の子』だ。


…のだけど、個人的にはプロットに説得力や必然性といったものをそこまで感じられなかった。もっとざっくり言えば、前作の方が面白かった。

そう感じた理由として挙げられるものとして、果たして何があるだろうか。


1つとしては、単純に「使えるものを総動員していない」脚本の怠慢さが挙げられる。キャラクターの設定や行動理念など、いちいち質にも量にも欠けるのだ。

主人公が家出した理由は陳腐すぎる(だから彼が帰ることを拒む理由としてろくに機能していない)し、転がり込んだ先の怪しげな社長・須賀の奥さんが何故亡くなったのかも明かされない(彼女もまた「晴れ女」だった、とかなら使えばよかったのに)。須賀の愛人(と主人公が思っているだけの就活生)がそこに存在しているのは単に主人公に思春期的な高揚と警察からの逃避における助け舟を提供するためでしかないし、彼女がなぜ須賀の下にいるのか、という点に関しても必然性は薄い。ヒロインに特異な能力が付与された理由付けだって、前作は一応ちゃんとしてたのにね。


あとは、ヒロインの能力を巡る周囲の世界の反応、あるいはその有無も、前作と比較した時の本作の大きな欠点となっている。『君の名は。』における三葉の巫女としての能力、それを用いた瀧の入れ替わりタイムリープは、少なくとも劇中において、クラスの親友や、大きくても糸守町という閉ざされた環境までにしか影響を及ぼさず、決して不特定多数の大衆に察知されることはなかった。周囲の反応も「狐憑き」という言葉に代表されるような、あくまでも都市伝説的な次元のものに終始している。

対して本作の陽菜はどうだったかと言うと、彼女の「100%の晴れ女」としての能力はインターネットにおける散発的な噂に止まらず、テレビによってその祈りの様子をスクープされるまでに至ってしまう。何より彼女たち自身がその能力を利用して商売するくらいだ、これは最早都市伝説のレベルには収まらない情報として流布される。

こうした「超自然的能力」描写の差異はどういった効果を生むだろうか。端的に言えばそれは、物語としてのリアリティに寄与する。

『君の名は。』においては、そうした能力がごく小さなコミュニティにおける秘密として保持されているため、大衆がその能力の存在を感知しない、という話は前に述べた。世界の大半がそうした能力を存在しないものと思っている、という点で、『君の名は。』の舞台となる世界は我々の生きる現実と限りなく等しい水準までそのリアリティを高めることとなる。

対して『天気の子』では、主人公たちが「晴れ女」という能力をビジネスとしてインターネット上で、すなわちその世界を構成する不特定多数の人間に売り込むわけで、世界の人間はその能力に対してアクセス可能である、何ならテレビで見ることだってできる、という点で、そうしたタネも仕掛けも無い決定的な奇跡を連発することのできる神懸かり的な存在を見たことのない我々の生きる現実とは決定的に異なってしまうのだ。

まあこの点に関しては、描き方云々以前に「視覚によって観測可能な能力か否か」という辺りが決定的な違いであるような気もするけども。


それから、これは作品のテーマに直結する問題だと思うのだけど、ラストシーンの陽菜の動きをあれにしてしまったのはかなりマズい。

新海誠は本作の物語を通じて、「自然を押しのけて幸せを得られる能力があるとして、それがどんなに少なくとも一定数の個人を不幸にしてしまうのであれば、それは捨象されるべきものである」みたいなことを言おうとしていたはずだ。物語内において、陽菜を「晴れ女」として使役しない、という決意が、終盤において作品の方向性を決定づけたはずだった。なのにラストで(恐らくは陽菜の笑顔に光を射し込ませるために)「晴れ女」の能力を使わせてしまったのは、ちょっと筋が通ってないよなと。これは主人公の帆高がどうこうとかではなく、脚本を執筆した新海誠の問題だ。


別に何もかもがダメだったと言いたいわけではない。映像、特に雲を中心とした空の背景は相変わらずクオリティが高かったし、脚本・演出に関しても、陽菜が落とした指輪なんかはこの世の繋がり=円環から陽菜が外れた存在となってしまったことを端的に表す良いモチーフになっていた。

また、作品のテーマ性が『君の名は。』と正反対であることや、その公開時期に3年の期間を要している辺りなど、本作はまさに前作の「片割れ」として、ファンだけでなく製作陣からも大きな期待を寄せられていたことは想像に難くない。だからこそ、新海誠の映画において毎回ただならぬ存在感を抱いてきた雲/空/天気を中心に据えた作品にしたのだろう。

ただ、もしそうだとして、3年という年月は本作の準備期間としては些か短かったのではないかと言わざるを得まい。新海誠の十八番=雲を中心に据えた映画だからこそ、そこはもっと入念に練り上げた最高の作品にしてほしかったところ。

本来『君の名は。』の片割れを成すはずだったのかもしれないこの彗星は、ティアマトを名乗るにはあまりに小さく、脆い。