しゃび

軽蔑のしゃびのレビュー・感想・評価

軽蔑(1963年製作の映画)
5.0
移ろいやすい男女の愛という普遍的なテーマを扱いながら、同時に過渡期を迎えていた映画という産業そのものを描いたゴダールの名作。

当時、ゴダールとアンナカリーナ は夫婦生活の末期。当時のゴダール本人の境遇もしっかり吐露されている。ポールの常に被っているハットとカミーユの急に被り出すウィッグは2人を映し出したものだということだ。

単純に女心に振り回される優柔不断な男の話としても、滑稽でとても面白い。何よりブリジットバルドーの艶やかさと、それを映し出すゴダールの視線だけでも、いつまでも観ていたいという気分になる。

しかし、あっけらかんとした男女の物語の裏側に、ゴダールの持つ映画の未来に関しての不安が深く影を落としている。

「映画に未来はない」という言葉がそっと映し出される。これは映画の始祖ルイ・リュミエール がジョルジュ・メリエスに発したと言われる言葉。大量消費材としての劇映画と記録装置として発明されたという映画の側面、ゴダールらカイエ・デュ・シネマ勢が標榜した作家主義。過渡期を迎えた映画に未来はあるのだろうか。
冒頭でカイエ・デュ・シネマのアンドレ・バザンの言葉が引用されているのも興味深い。

おそらく、バルドー扮するカミーユという人間の裏側には、ゴダールらが舵を取ってきたアメリカの商業主義映画への反発という記号がインプットされているように思う。
ポールという自分を持たない脚本家の前に、分かりやすい商業主義の権化としてのプロデューサーであるプロコシュと映画そのものの記号を備えたバルドーが対峙する構造。
プロコシュの車に乗せただけで、愛が冷めてしまうカミーユに、一瞬違和感を感じる。しかし、これは映画が商業主義に魂を売った瞬間でもあったのだ。

感情を赤青黄色と言った服装や小道具の色で表現しているのも面白い。あくまで映画とは外面を記録するものであるということを、分かりやすく伝えているようにも感じる。また、こういう理屈抜きで映像センスとしても群を抜いているところが、素晴らしい。

ゴダールが映画の未来に悲観的なビジョンを持っておきながら、この後1967年に商業映画を離れるまで名作を連発させているのも興味深いところである(『はなればなれに』『アルファヴィル 』『気狂いピエロ』などはいずれもこの後に撮られた)。



ネタバレ↓

冒頭のシーン。
足から始まり、くるぶし、膝と体の隅々まで自分のことが好きかどうか確認するカミーユ。しかし、確認するのは体の部位のみで内面性のことは一切触れない。この時点で、カミーユがこの映画においてどういった役割を担っているかを感じることができる。

プロコシュの車に乗せられたカミーユに、ポールが事故があったと言い訳をする(実際にそんなショットはないので嘘だと思われる)。
それに対してかカミーユは「つまらない。」と一蹴。
次に、ポールは通訳のフランチェスカに「ボスは厳しい人だね。昔からの知り合い?泣いてばなりいると美人が台無しだよ。」などと声をかける。
フランチェスカは「もっと面白い話はない?」と返す。それに対してポールは作り話を語り始める。

作り話をつまらないというカミーユと、作り話を欲するフランチェスカという対比の構造になっている。自然な会話を通じて、観るものに2人に与えられた役割をさらっと伝えてくれる。

ラスト、ローマに着いたプロコシュとカミーユは
例の赤い車で、ガソリンスタンドへ。噛み合わない会話を重ねた後、事故に会い2人とも死に映画が終わる。

後の商業主義映画との決別を示唆するような結末である。

個人的にとても好きなシーンがポールとカミーユの別れのシーン。映画の中で、フリッツラングに「シネマスコープは人間的じゃない。蛇か葬列を撮影するのに向いている」と語らせている場面がある。しかし、映画自体シネマスコープで撮られていて、この別れのシーンでは縦構造の長い階段を降りてくるショットになっている。これがあまりにも素晴らしい。横長のサイズで縦長の構図を美しく見せる天才的なワンシーンである。
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