「ヒメアノ〜ル」とは、 ヒメトカゲを指す造語で、「強者に捕食される弱者」という意味らしい。
タイトルにふさわしく、
【弱者という名のモンスター】を発明したという意味で、とても面白い映画だった。
森田剛演じる「森田」の人間性は、いろいろと辻褄が合わない。
映画の説明にはサイコキラーと書かれているが、森田は『悪の教典』の蓮実などとは全く種類の違うキラーだ。
森田にはキラーになった明確な経緯がある。そういう意味で彼はサイコではない。
では、『タクシードライバー』のトラヴィスのように、自分を弱者たらしめている社会に対する怒りが原動力か、と言ったらそういう訳でもない。森田はそもそも怒りを原動力にしていない。
どちらかと言うと解離性人格障害的だが、彼は主人格と乖離した別人格を持ち合わせている訳ではない。あくまで人格は地続きである。
いずれにも当てはまらないが、いずれにも当てはまりうるという、行動原理のよく分からないキャラクターが森田なのである。
そんな森田を、そのようなものと定義づけているのが「弱さ」だ。
か細い足、包丁で襲っても先端しか刺すことができない腕力、ぼそぼそとした声。
彼はヒメアノ〜ル(弱者)という名のモンスターなのだ。
蓮見にもトラヴィスにもなりえる森田剛という役者を、あのような特殊なキャラクターに仕立てた手腕は見事だ。
また、全く受けることをしない安藤と森田の間に、受け芝居職人濱田岳を置いているのは、ありきたりではあるが非常に安定的だ。
古谷実作品の定番、パッとしない男と美女設定もいい。
映画的な別れの危機が訪れないカップルと、社会の外側にいってしまった森田。
両者は全く別次元の住人だが、元を正せば一緒に麦茶を飲みながらゲームをした仲なのである。
社会とはこのようなものだ。
アニメ制作会社を放火したり、街中にバンで突っ込んだり、障害者施設を襲ったり。彼らを紋切り型の悪者としてSNSで叩くこともできる。
しかしもし、自分の人生が今とは180度違ったものだったとして。
今の自分と同じ自分でいられたかといえば。イエスと言える人はいないのではないか。