ずけし67

ヒメアノ〜ルのずけし67のレビュー・感想・評価

ヒメアノ〜ル(2016年製作の映画)
4.0
あけましておめでとうございます。2017年の1発目は「ヒメアノ~ル」。
古谷実は好きで「ヒメアノ~ル」も原作読んだクチ。
映画の評判も良いようなので(=物議をかもしてる?)観てみた。

殺しが快楽、殺しがエクスタシー、殺したいと思ったら ちゅうちょしない、欲望のままに生きる森田くん、、やっぱ異常だ、病気だって思っちまう。
自分の周りに森田くんみたいな異常者がいたら怖いなあ、自分はまともで良かったよ、なんて思ってしまったんだけど、果たして自分は本当に普通なのか? って。。
この映画観て喜んでる時点で、ウチのカミさんからは「アナタ普通じゃない」とか言われてるし。
カミさんの言うとおり! とりあえず僕は普通じゃない人で決定ということで。(^^;
まあ、変わり者って自覚はあるので、普通じゃないって言われても平気なんだけどさ。
でも正常と異常の違いって?
どこまでが正常でどこからが異常なんだろ?
普通って一体なんだろね?
世の中の多数派か少数派かってだけで、普通になったり、ズレた人になったり、挙句の果ては病気だって言われたり、大なり小なり皆そんな世界でイラついたり悩んだりしながら生きてるっぽい。
もちろん僕もその1人。
ホント、普通ってなんだろ? と思ってしまうのでした。

---以下ネタバレあります。---



今年の1発目ということで、今回は原作と映画の違いについて、もう少し掘り下げてみる。
原作ネタバレもありますのでご注意を。

まず本作が意外にも原作に近くてビックリしたんですが、でもやはり原作と映画は似て非なるモノでした。
ちなみに原作では森田くんは生まれながらのサイコパス。
イジメやその後の環境などの影響からモンスターが誕生したわけではありません。
高校卒業前のあの事件、きっかけはイジメに対する報復だったわけだけど、人を殺したことで異常なほど興奮し、エクスタシーを感じ、その場で射精してしまった。
その事実を自ら目の当たりにし、初めて自分が「病気」だと自覚することになる。
以降、自分の病気に苦悩しながらも、でも快感を求めて殺っちまう、さらに男よりも女を殺るほうが数倍気持ち良いことに気付く、そんなで次々と殺しを続け欲望を満たし快楽を得つつも、一方では自分の病気に苦悩する日々が続く。
原作ではそんな森田くんの苦悩する様子が克明に描かれており、そこがラストにも大きな影響を与えてくるんですよね。
で、欲望のままに生きるモンスターといえど、やりたい放題の日々もそう長く続くはずはないと、最後に極上の快楽を得るべく目を付けたのが、たまたまカフェで目に留まったユカちゃんで、恋愛感情のそれとは異質の、ただ殺したいという感情から惹かれ、それを実行に移す時を伺うべくストーカーまがいの行動を取っていたというわけです。

そんな常軌を逸した物語が展開中とはつゆ知らず、ユカちゃんに好意を抱くのが、近くの清掃会社で働く安藤センパイであり、安藤センパイの恋の成就のための道具として協力させられるのが後輩の岡田くんという設定です。
くしくも2人とも生粋のチェリーボーイで、彼女はおろか、女の子とイチャイチャしたことすらないという、ちょっと可愛そうな人生を送ってきたのですが、この三角関係からの意外なカップルの誕生は原作も同じです。

ひょんなことからラックが転がり込み、生まれて初めて彼女が出来た上に、童貞喪失どころかカワイイ彼女とSEXしまくり、信じられないくらい幸せな日々を送る岡田くん。

一方で、大きなショックを伴う失恋から、さらに卑屈になり、一生彼女は作らない人生を歩もうとする安藤センパイ。
実は原作では、森田くん、岡田くん、そして安藤センパイの3人の物語を主軸にオムニバス形式で同時並行に話が進んで行くんですね。
そうなんです、映画でもかなりの存在感を示していた安藤センパイですが、原作での存在感はそれ以上で(映画のムロさんキャラも良かったけど、原作安藤センパイはムロさんより数倍強烈ですよ)、とても重要な位置づけにあります。
ちなみに、安藤センパイのその後は一体どうなったの!?って気になる人は、ぜひ原作読んでみるべし。
安藤センパイの意外な?行く末が詳しく描かれていますよ。

さて、この3人の物語、3者3様なわけですが、程度の差はあれど、それぞれに悩みやコンプレックスを抱えつつ生きている様が描かれていて、そしてそんな彼らの物語に関わってくる周囲の人々もまた、普通と違う、異常だ、病気だ、と悩める人たちで固められています。
その中で最も対極にあるのが森田くんと岡田くんではないかと。
だから映画ではこの2人をメインに対比するような2部構成の形にしたんじゃないかと思います。尺の関係もあるので。

映画では森田くんと岡田くんが飲みに行ったり、最後に取っ組み合いの騒動になったりで濃厚に絡んできますが、この2人、原作では全くといっていいほど接点がありません。
2人の唯一の接点はユカちゃんという存在のみ。
映画でキーとなった、昔一緒にゲームをしたこともなければ、当然、麦茶のくだりもありません、クラスも違うのでイジメにも全く関係していません。
単に高校の同級生で顔と名前だけは何となく知ってるというくらいの事実だけしかありません。
なので、2人が顔を合わせるのも会話するのも序盤のカフェで安藤センパイの命令で岡田くんから声をかけたときくらいです。
それくらい細い糸の関係だった、まさに紙一重、というのが映画と原作の大きな違いです。

平凡な日常からは想像もつかない狂気は、自分とは接点のない遠い世界にあるのではなく、実はごく身近にあるもので、たまたますれ違ったり通り過ぎたりしているだけにすぎない、いつもの日常はまさにそんな紙一重の幸運の上に成り立っているのかもしれないと、この微妙な距離感、接点から より強く印象付けられる感じです。

ちなみに古谷実って、他の作品でもこういう紙一重の幸運や不運の小ネタを本筋の隙間に挟んでくることが多々あって、特に不運は有り得ないくらい激ヤバな不運が何気にコロコロっと転がってきたかと思ったらそこから思いもよらないぶっ飛び展開を見せたりするので、そういった予測不能なハラハラ感やドキドキ感が楽しませてくれるんですよね。

さて、映画では最後の大乱闘と誘拐逃走劇という2人の接点をあえて作り出し、そこに犬とゲームと麦茶のくだりを加えることで、グググイ、グイーっと引っ張り上げといて、ドッスーン!と落とし、最後の森田くんのセリフで切ない余韻の残る結末に持って行ったあたり、一つの映画作品として完成している感じで良いと思うのですが、何か切なく、もの悲しさが残る幕切れで、結局森田くんは救われなかったなぁという印象が強く残りました。

一方で原作はというと、森田くんは最後の快楽を得ようとユカちゃんを探し回るも、結局見つけ出すことはできず、公園のベンチで寝ているところを警官に職務質問され、あっけなく御用となります。
映画とは対象的に、コロコロコロっと転がって、ポトリと落ちて静かに終わる感じです。
最後の森田くんにセリフはなく、でもこのとき、森田くんの頬に一筋の涙が流れ落ちて終わりです。
僕にはこの無言の涙がすごく印象的で、捕まって悲しいとかじゃなく、止めたくても止められない自分を本当は誰かに止めて欲しかった、それがようやく叶った、そんな安堵から流した涙だったように思え、最後やっと森田くんが救われたような気がして、何ていうのか " よかったね " と言えるような結末で、だから僕はやっぱり原作のほうが好きだなって思うのでした。


ふい~っ、今年1本目ということで頑張って書いてみたけど、正直、疲れたっぽい。(^^;
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。感謝感謝。

とゆーことで、今年もいろんな人のレビューを参考にしつつ、でもやっぱマイペースで、いろんな映画を楽しみたいと思うのでした。
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