きょんちゃみ

サウルの息子のきょんちゃみのレビュー・感想・評価

サウルの息子(2015年製作の映画)
-
絶滅収容所において、人間は余分なもの(superfluousness)となる。余分さとは、有能さの対義語としての無能さでは全くない。人間が有意味の対義語として意味を持った無意味な存在になるのでは全くない。人間が、意味のない無意味となる。人間が無意味という意味がある無意味になるのでは全くない。人間が人間の外部に飛び出してしまう。絶滅収容所において人間は量となる。死にすら意味がなくなり、人間は自分が未だかつて存在しなかったことの確認作業として死んでいく。絶滅収容所において、人間は存在になる。余計な存在となった人間は、有能さの対義語として無能なのでは全くない。法律を違反した法的人格として犯罪者なのでは全くない。収容者は犯罪を犯すことすらできない。収容者は、服従しないものとして反逆者なのでは全くない。ただ、存在として余計なのである。犯罪とは行為であって、彼らは行為すら剥奪されているのである。あらゆることに意味がないので、死にすら意味がないのである。

2017年の大ベストセラーはハンナ・アーレント(1906-1975)の『全体主義の起源』(1951)だった。第二次大戦直後に出版された巨大な三巻本が今、ベストセラーになったのだ。「全体主義」という言葉は当初ファシストによってポジティブな意味で使われていた言葉だった。国家と一体化したいという願望、あるいは、全体主義が西洋文化に内在していることをここで少し、思い出してみよう。

ハンナ・アーレントは裕福なユダヤ人家庭で育った。ユダヤ人であることを意識したのは、シオニストのハンス・ヨナス(1903-1993)やクルト・ブルーメンフェルト(1884-1963)を知ってからだった。アーレントはシオニストに協力したとしてベルリンで逮捕されるが8日間で釈放されフランスへと逃れた。1933年に国民社会主義ドイツ労働者党のアドルフ・ヒトラー(1889-1945)が大衆の圧倒的支持を受けて選挙で大勝する。1935年、ナチスはニュルンベルク法によってユダヤ人の公民権を剥奪し、1938年には水晶の夜でシナゴーグを焼き、ユダヤ人を虐殺した。1939年にはナチスがポーランドに侵攻する。フランスではドイツ出身者が敵国人として南仏の収容所に送られていたので、アーレントにとってフランスも全く安全ではなくなった。1940年、ついにパリが占領されたのでアーレントは、夫ともにニューヨークに亡命した。アーレントがニューヨークにいたころ、ホロコーストは起きていた。1942年のヴァンゼー会議で、ユダヤ人の絶滅が決定されていたのである。ナチスに協力していたユダヤ人評議会の存在も決して忘れてはならない。

ユダヤ人憎悪(ヘイト)というのは、宮廷ユダヤ人や金融業のユダヤ人を対象に古来からずっとあるのだが、反ユダヤ主義は19世紀までなかった。反ユダヤ主義はネイションステートの成立によって生まれたのである。では、ネイションステートとはなにか。ネイションステートは、ネイションをステートの単位としようとするものである。言語と歴史と文化を共有していればネイションステートの構成員になれる。ネイションステートはナポレオン戦争に敗れた国々が国民意識に目覚めたことで生まれた。逆に言えば、ナポレオンによって神聖ローマ帝国という多民族国家が征服され、民族意識が高揚したことでネイションステート(国民国家)は生まれた。ネイション化することは、国家が強くなるために必要だったのである。つまり、なぜ国家が同質化をこれほど強めたかといえば、教育水準を高めようと思うと、国語を統一せねばならないし、軍隊や警察など、命をかけて闘う職業の人には、自分たちが守るべきネイションのイメージがしっかりないと本気でやれないのだ。だから、ネイションステートという幻想(『全体主義の起源』)は必要になったし、国家が強くなることの代金が、反ユダヤ主義だったのだ。つまり、反ユダヤ主義は、国民国家のアイデンティティの確立のために作り出されたのである。また、ユダヤ人銀行家はネットワークを作る。ロスチャイルド家初代マイヤー・ロートシルト(1744-1812)が有名だ。ユダヤ人にも法律的な同権が与えられたネイションステートにおいては、ユダヤ人に対して、普通のドイツ人になることへの同化圧力があった。それに反発してユダヤ人としてのアイデンティティが高まったり、ユダヤ人の陰謀論も盛んに唱えられた。1892年にはパナマ運河疑獄事件でユダヤ人憎悪が高まり、1894年にはフランス陸軍大尉アルフレド・ドレフュス(1859-1935)がドイツのスパイとして疑われ、逮捕された。証拠は彼がユダヤ人であり、スパイによって書かれた手紙に筆跡が似ていたことだけだった。彼は練兵場で軍刀を折られ、見世物にされたあと、南米に送られて終身刑になった。異なる立場にいる人を排除し、共感できる人とだけ一緒にいたいという気持ちが蔓延すると、何を考えているかわからない人を一箇所に小さく隔離しておこうとする(複数性が圧死させられていく)。

国民国家(ネイションステート)はこうして歴史の舞台に登場した。では、全体主義はなぜ生じたか。端的に言って、⑴帝国主義が自らを正当化するために人種主義(レイシズム)を生み、その後で⑵人種主義は国民国家の理念を内側から掘り崩したのである。

まず⑴から扱う。国民国家は、同質性によって存立しているのだから、帝国主義を採って他国の征服によって構成員が多民族化した場合、同化政策をとらざるをえない。しかし、支配者たちは、自分たちに理解不能な先住民たちに人権や同じ法の保護を与えて国民国家の一員にしてやりたくなかった。国民国家は征服者となる場合、被征服民族にも国民意識と自治の要求を必然的に目覚めさせるし、征服者と同じだけの権利が欲しいと被征服者の誰もが思うに決まっているのだが、そんなとき、人種思想(レイシズム)が被征服民族を国民国家の一員として扱わないことを正当化するものとして登場したのである。例えばフランスの小説家アルテュール・ド・ゴビノー(1816-1882)は、『諸人種の不平等に関する試論』において、白人が生物学的に最も優れていると主張した。ポーランド出身のイギリスの小説家ジョセフ・コンラッド(1857-1924)も、『闇の奥』(1899)においてイギリス人クルツが現地で神になる話を描いている。未開世界を治める権利を神から与えられているという閉塞感とは真逆の幻想は魅力的だった。このような人種思想はアジア・アフリカの植民地支配に出遅れたドイツにおいては、ヨーロッパ大陸内部にベクトルを向けた大陸帝国主義となった。ドイツは東ヨーロッパやバルカン半島に進出することを目論み、これが第一次世界大戦として結実した。他の帝国主義国によって野望を阻まれたドイツ帝国は第一次世界大戦に敗戦し、1919年にワイマール共和国ができる。ワイマール共和国はドイツ民族のアイデンティティを強烈に打ち出したネイションステートであり、国歌もあの悪名高き『ドイツの歌』であり、ドイツ民族が祖国を守ることの重要性を強調し、かつてのドイツ民族(という幻想)が治めていた(とされている)土地の広大さ(マース川からメーメル川まで、エチュ川からベルト海峡まで)を訴え、国民意識を高揚させた。ナチスドイツではなく、ワイマール共和国がもうすでに、『世界のすべての上に君臨するドイツ』という歌詞を国歌(『ドイツの歌』)にしていたことを忘れてはならない。さらにこのころ、ネイションではなくフォルクという曖昧な概念が使われ始めた。この概念は、フォルクがいるところは潜在的にはドイツなのだという主張に基づいている。最初は19世紀末にドイツ青年たちがワンダーフォーゲル運動を始めて、ドイツの民族意識を実地で感じようとしたのだが、今度はワンダーフォーゲルどころではなくて、軍隊でもってドイツの民族的理想を体現しようとしだしたのである。さらに、第一次世界大戦で無国籍者が大量に出た。国民国家は何よりもネイションの利益が大事なので、ネイションでないものまで守ってやる義理はない。国民国家にとっては、普遍的人権よりもネイションの利益が大事なのだ。ネイションステートにおいて、普遍的人間という理念の限界が最初に露呈したのだった。国民国家はこのようにして、レイシズムに傾いて行った。

次に⑵を扱う。人種主義は国民国家の理念を内側から掘り崩した。それはつまりどういうことか。まず、資本主義が発達して社会構造が変わると、大都市に様々な階層の地方出身者が混在して暮らすようになる。国民国家の理念に積極的に寄与するという意識(隣人は自分と同じ仲間であって、彼らの利害は自分の利害でもあるという意識)を大衆は完全に失った。階級と職業が流動化すると、アトム化した大衆は想像力の助けを借りて、自己を確立することを望む。一体感が欲しくなる。世界恐慌(1929)によって街には失業者もあふれた。人々は分かりやすい政治を求めるようになった。分かりやすい世界観は大衆を動員しやすい。ワイマール憲法によって議会制民主主義になったことで、大衆社会は本格化した。あらゆる人が無条件で政治に影響力を持てるようになる。これによって政治に関心がない人たちにも政治参加ができるようになったわけで、参政権を求めて闘っていた頃よりもずっと我々は政治を人任せにしてもいいと思うようになった。こうして現れたのが大衆である。大衆の特徴は、①政治に無関心で中立であること、②具体的で有限な到達可能目標を自発的に持たないこと、③共通の利害で結ばれていないこと、④投票に参加せず政党や階級に属さないこと、⑤目指している方向性も何が自分の利益なのかも明確に自覚していないこと、である。かつての市民社会は、自分たちの利益・権利・理念を自覚し、共有しており、政党によって動かされていたが、大衆社会はもはやそうではない。大衆社会はこれ以上何を要求したらいいのか全く分からないほど見かけ上は豊かになり、自分たちの気持ちのいいことを言ってくれる指導者が現れるのを待っているような状況である。大衆社会では分かりやすい世界観が求められている。大衆社会は、世界全体について分かりやすい図式(一貫性を備えた嘘の世界)で、誰が敵なのかを早く教えて欲しいのだ。ナチスは世界観政党だった。世界観政党は全く具体的ではない。ナチスは現実的な利益など何も語らない。生きがいだとか、「閉塞感を打ち破るぞ!」だとか、威勢のいいことばかり早口で並び立てる。世界や社会の本来の在り方や、優良な民族の歴史的使命といった哲学的・形而上学的世界観を語り、抽象的な言葉で人々を惑わせた。ヒトラーに投票したのは大衆である。

1960年、ナチス将校アドルフ・アイヒマン(1906-1962)がアルゼンチンでイスラエル諜報部によって拘束・拉致され、イスラエルに連行され裁判にかけられた。彼は絶滅収容所にユダヤ人を移送する責任者だった。アイヒマンはアーレントと同い年である。1906年にドイツの中産階級の家に生まれ、工業専門高校を中退して、幾つもの職業を転々とし、最終的に仕事をリストラされた小男だった。彼は、職を失って、ナチス親衛隊公安部に就職した。ヒトラーの『我が闘争(Mein Kampf)』(1925)も読んだことがないし、反ユダヤ主義を強く唱えてもいない凡庸な役人だった。アイヒマンは無思想で機械的だった。アイヒマンは、命令に従っただけではなく、法にも従っていた。アイヒマン裁判は、アイヒマンを死刑にすることは最初から決まっていたのだから、イスラエル側の政治ショーだったのではないかとも言われている。アイヒマンはとても陳腐(Banality of evil)な男だった。アイヒマンは、自分が普遍的な法に従う市民としての義務を果たし、秩序を守ったという主張を繰り返し、自分の死刑がわかっていてなおその主張を貫いた。彼は1962年に絞首刑になった。(この年はイェール大学でミルグラム実験が行われた年である。)人間的かつ公的空間である政治において、アイヒマンの服従とナチス支持は同じだとみなされるのである。ナチスとそれに服従したアイヒマンは、自分と異なる思考をする人間の存在を認めなかった。複数性を許容しなかった。世界についての考えを複雑化しておくことができなかった。複雑さに耐えられなかった。複雑さを嫌うのは、アイヒマンだけではなく、人間全体の性ではないだろうか。アイヒマンは、単純な世界観を持ちたいという欲望に負けたのだ。我々は私的な場面で、敵を嫌っても構わない。しかし、嫌いな敵を存在させねばならない。単純化された世界は、結局あなたにとっても住みにくいからだ。
きょんちゃみ

きょんちゃみ